1.信長と足利義昭の会見

 永禄11年7月25日、熱暑の中を、織田信長は金華山のふもと稲葉城下「井ノ口」の館から、西南一里あまり離れた岐阜西庄の立政寺(りつしょうじ)に騎馬で向かっていた。35歳の男盛りですぐれた容姿の信長は、際立った武者ぶりであった。従者も近習を含めて秀麗な一団であった。新しい領主は領民の目をそばだたせて、とにかく颯爽としていた。

 金華山を東部とする城下町井ノ口は西庄あたりまで十四世紀頃から街路が整い始めていた。長良川が井ノ口の街の東北から南西へと街を斜めに切るように流れて、街を両分している。西庄は長良川東岸近くにあった。その西庄に浄土宗西山派の中心の寺院立政寺があった。開基は智通上人「智通光居」。伊勢からの帰途の上人がここで苦行を始めてから、人が集まりだして、正平9年(1354)創立になったという。信長が2年前に城下町井ノ口に侵入放火した痕跡もだいぶ薄れて、町は修復が進んでいた。街の中心部には中山道の53番目の宿場町(加納)が在り、ここらは古くから交通の要所であった。西庄はそこからそう遠くない。

 立政寺の僧坊「正法軒」には信長が越前に派遣した接使村井貞勝・島田秀順・不破光冶・和田惟政を従えて岐阜入りをした足利義昭が信長を待っていた。義昭一行は「福井一乗谷」の御所から浅井長政の小谷城に滞泊して、佐和山城を経て接使とともに稲葉城下に到着したのだった。今日、立政寺で信長と会見することになっていた。

 会見場の立政寺本堂にいた義昭の身辺には、足利幕府の幕臣だった細川藤孝や上野清信らが付き添っていた。下座に着いた信長には会見のきっかけを作った明智光秀が傍に介添えしていた。会見は無事に終わった。義昭と信長の両者はこれまでに上洛について話し合いと連絡を取り合ってきたが、それぞれの思惑とおりにはことが運ばず、上洛が実現できないで今日に至った。

 織田信長は自身の戦略工夫で、美濃の領地拡大を重ねていたが、時間がかかりすぎた。ようやく、木曽川上流の犬山城の「織田信清」を追放し北対岸の美濃への本格的な侵攻が可能となった。永禄8年(1565)8月、信長は尾張小牧山城を発進、木曽川を渡河、美濃北部の斉藤龍興支配下の諸城を乗っ取った。さらに8月28日、関市に侵入して「堂洞城」を攻め取った。これで東美濃の支配に目途がついた。堂洞城をさらに北に登った「加治田城」からは、南方向に遠く尾張まで見渡すことができる眺望がある。岐阜賀茂郡加治田は中央濃尾平野の北端に位置し、眼下に西の岐阜城と東の苗木城とを結ぶ要路が走っている。

 加治田山頂から南の眺望一観、信長はここで「天下布武」の宣言を思いついたといわれる。新征服者は加治田城主に斉藤道三の末息子斉藤薪吾(利冶)をあてた。信長からすれば、斉藤薪吾は妻の異腹の弟にあたる。

 それからの信長の美濃支配は一気呵成に進むかに見えたが、まだ数多くの手順が必要だった。永禄10年(1567)8月15日、伊勢攻略を急遽反転して、斉藤龍興の岐阜城を襲い、井ノ口から追放して、ようやく美濃の全体支配を成就することができた。いよいよ「天下布武」の実現に向けて、信長は独自の構想の実行を進めることにした。岐阜「井ノ口」を手に入れた余得は大きい。岐阜から京都までは3日の旅程でる。騎馬だったら2日で都に届く。ただし、通行の妨げを受けないでの話である。

 信長の上洛にいたるまでの領土拡張の構想は尾張・美濃から南近江を通る中山道の確保、それに伊勢・伊賀・甲賀そして南近江に至る東海道の獲得である。往還を利用して洛東に速やかに入るために交通網をを整備することであった。琵琶湖の水運整備もこの構想の一環である。交通を妨げる領民や領主は排除しなければならない。

 この構想を思いつく信長の頭脳状態は、宗教の指導者が布教を妨げる要因をなんとしても取り除こうとする発想と共通するものがある。あるいは、宗教革命家が現実社会において、すべての障害を切り崩して、活動しようとするところと似ている。私は信長を日本の歴史上類まれな政治改革者と評価するが、政治改革者であるとともに、精神界における第一級の改革者であったと評価する。信長の宗教に対する考えは「証明できないものは存在しない」であり、「あの世の存在を実証できない宗教は欺瞞である」と考える。だが、宗教家の真摯な生き様については、敬意を持って接する。だから、世俗的な権威と利益ばかりを望む堕落した宗教家を許さない。信長は既成の政界・宗教界の指導者の行為と考え方について相容れないところが多い。

 信長は美濃井ノ口(岐阜)を手に入れてすぐ、上洛するための準備を始めることにした。一方、足利義昭はこれまで三好政権の追及を逃れながら、絶えず上洛工作をして、足利幕府を再興する考えを通していた。永禄8年5月に兄足利義輝が弑逆されてこの方、義昭は立政寺会見まで3年3ヵ月のいわゆる逃亡隠棲の中で、上洛の機会をいく度となく工作していた。だが、いずれも挫折を余儀なくされていた。一時は信長とともに上洛の機会を狙ったのだが、これも挫折していた。
 足利義晴・義輝将軍の権威が衰え、管領の実力が消滅していくこの20年のうち、三好長慶が幕政の中枢を握ってからは、比較的穏やかな政治が行われていた。だが、永禄7年以降、足利義輝将軍がいない京は三好長慶が健在であったころのような安定的な政治が行われなくなっていた。三好党や国衆の跋扈がますます激しくて、諸国の騒乱だ激しくなっていた。

 足利幕府の衰微と権威の失墜のなかで、尾張の奉行に過ぎない織田信秀・信長はここまでのし上がることができた。信長は足利義輝に拝謁する機会を得ており、幕府の安定と朝廷の弥栄を願っていることを示していた。また、これまでの尾張における浄土真宗徒との関係も穏やかなものであった。信長は将軍義輝に拝謁の折、石山本願寺法主顕如と引き合わされたが、浄土真宗の指導者に対して信長は良好な関係を喜ぶような表情をみせた。

 将軍義輝が殺されて国政が混乱する中、信長はそれなりに上洛を狙う機会を窺ってきた将軍の弟義昭の期待に応えるには、信長は尾張・美濃の完全支配ができていなかった。義昭との申し合わせは幾度か壊れていた。だから、義昭は信長不信の気持ちが強くなっていたという。だが、此度の両者の会見については、信長から義昭への丁重な申し入れもあって、両者初めての歴史的会見が実現したのだった。

 会見場での義昭は信長に対する不満の感情をおくびにも出さない様子であった。信長はそ知らぬ態度で下手にでて、会見の首尾を上々にまとめあげた。

 接見会場での足利義昭は接使の派遣に謝意を述べるとともに、上洛について信長の尽力を頼むと希望を述べた。信長は畏れ入った姿勢で承諾の旨を言上した。信長は献上品として御太刀、御馬、御鎧二、沈香、縮緬百反と鳥目千貫を揃えていた。これで義昭は武家の頭領として振舞う武具と装身具を持つことができた。信長はこういうことに実に行き届いた細やかな配慮ができる才人であった。義昭に従う家臣と従者は50人ほどの人数が揃っていたので、井ノ口での会見に至るまでの信長の心配りは実に鮮やかなものとなった。義昭一行はしばらく、立政寺正法軒に留まることになった。

 足利義澄・義晴・義輝将軍の時代に畿内を制圧していた三好長慶(ながよし)が、永禄7年(1564)7月、山城国飯盛山城でひっそりと病没してから、三好一統は2年間喪を秘していたが、安定的治政に手腕を発揮していた指導者を失った近畿の大名、国衆は次第に武力抗争と小競り合いの暴力沙汰に終始した。後奈良天皇のころは地方の天朝様や公家の荘園や寺社領が横領されて、年貢が都に入らなくなっていた。幕府の威令が行き届いていなかったのである。長慶がいなくなって、治世はさらに暗黒なものになっていた。確かに、20年余りに及ぶ三好政権の終りが近づきつつあった。

 永禄8年5月に、十三代将軍義輝が松永久秀と三好党に殺されて、実質的には都には将軍がいない無政権状態が続いていた。三好三人衆が推挙する四国出身の十四代新将軍足利義栄(よしひで)は都に入ることもできないでいた。義輝を弑逆した松永久秀が意見を異にしているので入洛ができなかったのである。

 立政寺の会見から2月ほど経って、永禄11年(1568)9月、織田信長は岐阜城を出て、足利義昭を奉じて上洛。足利幕府再興の運動を始めた。同年9月、信長と足利義昭が上洛した畿内は下克上が罷り通る足利幕府の無力地帯であった。ここに足利義昭が登場したのである。幸運といおうか、将軍義栄が攝津富田(とんだ)で、病没していた。そして、畿内をかき回していた松永久秀が次第に三好三人衆に押さえ込まれ、大和国に逼迫していた。新将軍の誕生の条件は整っていた。