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2.弱体幕府と管領細川晴元
畠山氏と斯波氏それと細川三管領は室町幕府の将軍位の継承争いに遭遇。十代足利義植(よしき)と十一代足利義澄それに嫡男足利義晴(十二代)の将軍継承が国中に争いを引き起こしていた。幕府の弱体化と下克上は表裏をなすもので、守護大名、守護代が権力を巡り争い、国衆が武力をもって互いに相争い領土を取り合っていた。
十五世紀半ば頃から、阿波国守護細川氏の家臣三好氏は管領細川氏に従って、畿内で存分の働きをしていた。管領細川晴元の時代のことである。管領家の勢力を利用して、晴元は将軍義晴と事を構え、幕政を混乱に落とし入れていた。将軍の地位を脅かす幕臣であった。前管領細川高国から権力を奪取した晴元は、被官三好氏を操り三好氏を分裂させ、一向宗本願寺派や法華宗衆徒を政治的に利用する危険な政治操作を行っていた。
三好政長(まさなが)はそのような管領細川晴元に擦り寄って、三好氏頭領となった強欲な武将であった。三好政長に殺された三好元長を父とする長慶は、幼少期の苦難を乗り越えて、管領細川家を凌ぐ政治権力を手中にするまでに成長した。
畿内で実力を認められる以前の若い三好長慶はまず、淡路島から近くて、都への交通の要点である摂津を本拠地とした。そこの「越水城」から畿内に出動して勢力を伸ばしていった。この地は交通の要点としての重要さがあるので、幾度も錯乱が繰り返された。後年、三好長逸(ながよし)がここを利用して動いたので、信長はこの越水城を廃城としている。
管領細川氏が足利幕府を揺り動かし、被官三好氏が勢力を伸ばしているとき、足利幕府は将軍を支える力が弱く、足利将軍が二代にわたって都から逃げ出す政情不安が続いていた。足利義晴は漂泊の途上、近江穴生で没する有様であった。義晴の嫡男「足利義輝」は天文十五年(1546)12月に十三代将軍に任官したのだが、将軍の権威はないに等しかった。義輝は管領細川晴元とも折り合いが悪く、幾度も都を追い出された。細川晴元が三好長慶と争いを続けている間、将軍義輝は都から遠ざかることになった。中立の立場であると、争う双方が認めない限り将軍の座は安泰ではない。管領細川晴元と三好長慶とが争っている間、将軍はとばっちり受けて、あわせて12年ほど洛北の朽木・坂本に逼塞し、都から離れて住んでいた。
三好長慶との話し合いで、永禄元年(1558)、将軍義輝はようやく二条勘解由小路の武衛(ぶえい)屋敷に落ち着いた。この屋敷は三管領のひとり斯波氏(武衛家)の旧邸である。斯波氏宗家は落魄して尾張清洲の信長の庇護下にあるので、空き家同然の武衛屋敷は新将軍の仮住まいとして選ばれたのである。
三好長慶が永禄7年に(1564)7月、山城国飯盛山に病没する前の6月、十河重存(そごうしげまさ)は三好長逸、松永久通ら四千の兵に守られて上洛。将軍義輝から三好長慶の養子として三好家の相続を認められた。重存はすぐさま飯盛山城に引き返して、病床の長慶にようやく洛中の報告をすることが出来た。翌、永禄8年5月1日、重存は「三好義継」と諱名を貰い、「左京太夫」の冠位を得た。
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