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3.将軍弑逆事件
白昼に義輝将軍の館が襲われた理由は、将軍が上杉謙信の再度の上洛を促し、織田信長と交渉を画策しているので、三好党が政権維持するに障りがあると考えたからである。幕府内部に忠誠心が厚くて、軍勢を持った幕臣が少なかったので、義輝将軍は裸の王様みたいなものであった。積極的に政治に関与する将軍がいては三好党が思うままに都を支配できないので、将軍を排除するという三好党の無法が罷り通っていた。
足利義輝は武芸の習熟に熱心で、塚原卜伝に刀術を習った将軍であったが、松永久秀軍に取り囲まれて、一介の武者の様に武器を振り回しながら無残な最期をとげた。京都桂川の西岸の郊外にあたる長岡の勝龍寺城にいた幕臣細川藤孝は少ない手勢でかけつけたが、三好党の大軍勢に突入することはかなわなかった。勝龍寺城もやがて将軍方の城として三好衆に攻め落とされることになるので、藤孝は京二条の和泉上半国守護の細川屋敷から嫡子熊若丸(細川忠興)を別の所に落とすと同時に、勝龍寺城の手勢を城から去らせ、奥方も里の兄沼田上野介光長に戻した。
将軍義輝の弑逆事件の後、金閣寺(鹿苑寺)院主周ロ(しゅうこう)も三好党に誘き出されて殺された。政治とは無縁の人物と見る人が多いのに、仏門に在っても将軍の弟だからということで殺されてしまったのである。将軍にはもう一人弟がいた。奈良興福寺一乗院の門跡覚慶である。覚慶は松永久秀軍の包囲網の中、命からがら一乗院を脱出、甲賀に逃れて和田惟政(これまさ)を頼った。
覚慶の脱出を支えた細川藤孝(幽斎)は将軍義晴と義輝に長く侍した幕臣である。幕臣といえども将軍義晴と清原宣賢の女との間に生まれたご落胤である。清原家は大学寮の明経博士となる学者の家柄で清少納言が出たので有名である。後奈良天皇の推挙で足利義晴は近衛尚通(なおみち)の娘慶壽院を正室ととした。近衛の姫が生んだ義輝は、藤孝にとって異腹の弟にあたる。正室に義輝が生まれたときには、藤孝と母は幕臣三淵伊賀守晴員(はるかず)に下げ渡されていた。三淵家には嫡子三淵大和守藤英がいたので、養子話は三淵家に災難が及んだようなものである。
養子の三淵藤孝は五歳のとき、養父伊賀守晴員の兄細川播磨守元常(和泉上半国守護)に再び養子に出された。細川元常は和泉長岡に勝龍寺城を持つ細川家(典厩家)の当主である。藤孝は若年時代に母方の祖父清原宣賢に歌道を習い、武道を塚原卜伝に教わった。若いときは巨躯で力持ちであった。幕府の幕臣として、二代の将軍に続けて仕え、今は将軍候補義昭を支えている。義兄三淵藤英も義輝将軍に仕えていた。覚慶を救出するところから、岐阜の信長のもとに辿り着くまで藤孝とともに行動した。
また、藤孝と同じ義輝の侍臣上野中務少輔清信が和田の庄に駆けつけ、覚慶が近江矢島庄、若狭小浜、越前敦賀から越前朝倉氏の館へと流離するとき、藤孝とともにつき従った。覚慶主従は越前朝倉館に永禄十年(1567)11月にようやく入ることが出来た。朝倉義景は一乗谷上流の上城戸に御所をつくってくれた。
朝倉義景は好んで義昭を受け入れたわけではない。敦賀の朝倉景記(かげのり)・景恒は若狭から入ってきた義昭を一年ほど領内に預かった。義景が「いまは寒いときなので」と受け入れを先延ばししたからである。義景の言葉は口実であり弁明であった。
越前の隣国加賀は実質的に国主がいない「百姓の国」である。加賀の国衆が惣を形成していた。富樫氏は幕府から名義だけの国主として扱われていた。ともすれば、越前の国衆が加賀惣の国衆と連動しようとする動きをみせるので、越前朝倉氏は油断がならなかった。義景の治政中に一向宗徒が多い国衆の不穏な動きが出ていたので、朝倉当主は義昭を引き受ける時期でないと考えて、先延ばしすることにしていた。
近江の矢島庄に在ったとき覚慶は還俗して、「足利義昭」と名乗っていたが、都合の悪いことに、永禄10年2月、阿波の三好党に担がれた義輝の従弟足利義栄(よしひで)が先に十四代将軍に任ぜられていた。このような政治情勢であったので、朝倉義景が義昭を奉じて上洛するには相当な手配りが必要である。
越前には加賀一向宗徒と動こうとする一揆が起こるので、朝倉義景は軽々しく動くつもりはなかった。義昭は一計を案じて、石山本願寺法主顕如の嫡男教如(きょうにょ)と朝倉朝倉義景の娘との縁結びをまとめ上げた。使いをしたのは細川藤孝である。義景が上洛の話を約束したあと、永禄11年6月中旬、ちょうど義景の一子阿若丸(くまわかまる)が急死してしまった。義景の政治的動きをする気持ちは萎えてしまった。義昭の出立の話はこれでつぶれてしまった。
一方、義昭は幕府再興にあまり熱意を示さなくなった。朝倉義景のもとを去って、一度上洛話で迷惑をかけられた信長を頼ることにした。義昭側の細川藤孝と信長側の明智光秀のお膳立てが実った。永禄11年7月25日、こうして立政寺(りっしょうじ)で織田信長との会見となったのである。 |
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