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4.信長の天下取り構想
ここで、東美濃を支配したあとの織田信長の「天下布武」を目指す動きをしばらく追ってみる。永禄10年(1567)春、信長は滝川一益(いちます)を使って、北伊勢を侵攻して、員弁(いなべ)、桑名両部を占拠した。ここは長良川西側にあり、特に桑名郡は伊勢湾河口に面する海岸部があり海上交通の要所でもある。清洲から近い。伊勢湾に接する豊穣の地である。員弁郡の長良川東側(対岸)に長島がある。
そして、一益の侵攻に次いで、信長自身が永禄10年(1567)8月、北伊勢に出陣したが、突然反転して、美濃の斉藤龍興の稲葉山城(岐阜城)を占領してしまった。武田信玄が襲来するという情報が入ったのでというのが信長軍反転の理由だが、どうも信長の戦略らしいと思える。若い龍興がしてやられた。斉藤龍興は長良川を下り、伊勢に追い落とされた。信長が長い年月にわたり策略を続けた長井家(斉藤氏)乗っ取りがこうして成功した。永禄10年8月15日の稲葉山城攻略は記憶さるべき事件である。美濃を制圧した意味は大きい。信長はこれで天下を武力で支配する構想を練ることができた。
岐阜城において、永禄10年11月、信長は「天下布武」を宣言、武家政治実現の構想を公にしたのであった。ちなみに、この「天下布武」の朱印は、岐阜城天守閣に展示してある。稲葉山城を手に入れて、美濃全域を支配することに成功したので、信長はつぎに、都に通ずる近江国と伊勢国を視野に入れて、浅井氏と六角氏との修好を願って交渉に入っていった。信長はさっそく北近江の浅井長政に岐阜から従妹「市」を嫁がせた。同年10月のことである。「市」は信長の子をもうけていたという説がある。その女児「茶々」が「市」とともに浅井長政に迎え入れられたというのである。市は世に喧伝された絶世の美人で、浅井長政との間に、男二人と娘二人「初・江」を生んだ。茶々を入れた三人娘の運命について、後ほど取り上げることにする。
信長は美濃を侵攻する頃から頻繁に朝廷に接近して、政治力を利用しながら、交渉相手を和睦に引き込む手管を使っていた。今度も例によって、上洛して将軍職を手に入れたいと願う足利義昭の動きを利用した。信長は朝廷と公家衆に足利義昭上洛の話を持ちかけていた。そして、朝廷から近江の六角義賢(承禎)に信長が義昭を奉じて上洛するので協力するように話しかけてもらった。だが、信長の美濃支配が整わないために、上洛は実現できず、義賢にすっかり不信を抱かれ、越前に漂泊中の義昭の機嫌を損ねてしまった。朝廷に話を持ちかけたのが早すぎたのである。
そこで、信長は戦略を進めた。永禄11年(1568)2月、ふたたび信長は北伊勢の攻略をはじめた。鈴鹿の神戸(かんべ)城を攻撃。支城「澤城」の山路弾正の抵抗に手を焼いたが、神戸具盛(とももり)を屈服させて、織田信孝を継嗣にすることにした。三七信孝は11歳、具盛の娘を室とした。神戸氏は伊勢平氏の関氏一族なので、北伊勢の関氏一族の諸城が信長の支配下となった。神戸具盛は織田信長の軍団に組み入れられ、近江各地を転戦した。六角義賢を観音寺城に攻めたとき、蒲生秀賢を信長側に引き入れる功績があった。具盛の姉が蒲生秀賢の室であったのである。
信長は次に中伊勢に手をのばした。そこには源氏工藤氏が鎌倉時代から平氏を抑えるために、伊勢長野の「長野城」を拠点として永く領治していた。蘇我兄弟から討たれた工藤祐経の三男祐長が地頭職として安濃・奄藝(あまぎ)二群を支配してからの歴史がある。この時、十五代長野藤定は勢いの盛んな北畠具藤(ともふじ)を養継子としていた。
織田信長は長野具藤と長野一族細野藤敦(細野城)との不仲に目をつけて、喧嘩ををさせた。具藤が争いに負けて北畠の実家に逃げ出したので信長は労せずして、弟織田秀包を長野家の養継子にするのに成功した。秀包は長野藤定の娘を正室とした。余談であるが、二人の間に四男三女が生まれた。長野城は伊勢内陸部にあり、大和と近江に通ずる交通の要所である。これで六角氏に上洛時の近江通過の了解を得ることが出来ると踏んだのだが。
上洛の準備を重ねていた信長は、早くも永禄11年8月に義昭を動かす話を進めていた。細川藤孝を観音寺城に送って義賢(承禎)に上洛の話を持ちかけさせた。義賢は「公方様は義栄公がすでにお立ちである」と首を縦に振らなかった。義賢は三好衆と語らって、信長風情が現れても、六角勢が観音寺城に籠城する間に、岩成友道ら三好三人衆が京から駆けつけることになっていた。六角義賢と義粥の頭の中には美濃の斉藤氏と争っていた頃の信長の心象のままであった。
信長は小谷城の支城佐和山城で、細川藤孝の交渉首尾を待っていたのだが、義賢の拒絶を受けるとあっさりと岐阜に引き返した。すぐさま、大軍団を編成して、永禄11年9月7日、岐阜を出発、上洛を目指した。足利将軍家再興の旗印を掲げて、信長は二万八千の軍勢を催して、上洛を開始した。大軍団の中に徳川家康の名代もいた。義昭は立政寺で待機、信長軍団がまず、近江を目指した。都においての天下支配を考える同床異夢であったが、二人は互いに天下号令の夢を信じて一時的に友好関係を演じていた。 |
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