に |
5.信長と足利義昭 上洛
上洛に際して、やはり六角義賢が織田軍団を遮った。義賢は姉が管領「細川晴元」の継室であったので、晴元とよくない三好長慶とは長い間政治対立の関係であったが、長慶亡き後は、三好三人衆の勢いが強いので、三好長逸(ながやす)らの顔色を窺う姿勢が強かった。いま、義輝の弟義昭の上洛を認めようとしないのは、三好党の勢力を認め、信長軍団の戦力を過小評価したためである。義昭が義賢を所司代に任じようと考えていることに対して、佐々木源氏の名門意識が強いこの近江守護職は任官するならば所司職か管領をと高望みしていたらしい。義昭が矢島に逼迫していたとき、三人衆のひとり、三好長逸が近江坂本まで押しかけてきて、義昭の矢島の庄滞在を認めていた義賢を脅しあげたことも響いていた。
永禄11年9月13日、信長は義賢の居城観音寺城を攻める前に、まず、観音寺城から東に一里ほど離れた中山道そばの支城「箕作城」を一日で攻め落とした。信長軍の戦力に驚愕した六角義賢は、夜半に観音寺城から逃げ出し、南方面の甲賀に遁走した。翌日、観音寺城を無血で手に入れた信長は、義賢の家臣蒲生賢秀(かたひで)と氏郷を見出して、自分の家臣とした。蒲生一族は残された六角家臣団をよくまとめて、信長の上洛を援けた。これは蒲生氏との縁に繋がる「神戸具盛」の功績でもあった。
信長が六角義賢を四万もの軍勢で一蹴したという大げさな知らせに、三好三人衆は驚き、都を離れて摂津と山城国に引き上げた。兵がいない京に、細川藤孝は9月23日に入った。3年4ヵ月ぶりの都帰りである。信長と義昭は3日後に入京した。信長は東福寺、義昭は清水寺に泊まった。
それから2ヵ月の間に、都はめまぐるしく変わった。三好衆に担がれた十四代将軍足利義栄は義昭が入京する前に、不運にも病を得て摂津富田(とんだ)普門寺で死んでいた。永禄11年10月18日、義昭は参内して、十五代将軍に任ぜられた。あれよあれよという間の新将軍誕生であった。
新将軍の仮住まいは「細川六郎信良」の館である。信長は元管領「細川晴元」の嫡子であり、晴元が三好長慶(ながよし)に屈服したとき、人質として幼少の細川信良が淀城に預けられた。三好長慶のもとで成長した六郎は、烏帽子親を長慶として元服させてもらった。長慶が亡くなってから、細川京兆家の御曹司信良は若年なので、三好政権の傀儡として三人衆から利用されていた。信長と足利義昭とが都入りしたこの時、細川の御曹司は三好衆とともに都を離れて芥川山城にいた。新将軍義昭は信長の京屋敷を仮住まいとしたが、この屋敷は無防備で手狭だったので、年末に京六条の日蓮宗本圀寺に移り住んだ。
足利幕府再興に成功した信長は山城国を拠点とする三好三人衆「三好長逸、三好政康、岩成友通」を阿波に駆逐し、都の治安を回復しようとした。都の西方に、三人衆のひとり岩成友通が細川藤孝の勝竜寺城を占拠していたので、信長自らも出陣して、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚を動員し岩成友通を追い払った。戦略点として、勝竜寺城がある長岡は西へ摂津、北へ丹波、南へは大和方面に出る交通の要所である。信長はここに堅固な城を作ることにした。岩成友通を追い払ったこの戦いの後、信長は朱印状を給して、勝竜寺城の拡張と修築を命じた。修築した城は元城主細川藤孝に与えられた。藤孝はこうして、和泉半国上守護家を名実ともに再興することができた。そして、朝廷から従五位下、兵部太夫の冠位をもらった。
騎虎の勢いで、信長は次に摂津芥川山城と芥川城(館)を襲った。城には細川京兆家の細川六郎信良と三好長逸がいたが、二人は信長軍が来たので早々と退散していた。信長は足利義昭をここに呼び寄せ、芥川山城と居館(芥川城)を預けると、摂津・和泉にまで軍を進めて行った。
信長は池田筑後守勝正(かつまさ)に和泉池田六万石の領地と池田城を安堵した。勝正はこれまで三好長慶と修好を続けたし、今は三好三人衆とも友好の関係にある。三好衆と私闘を続ける松永弾正久秀と戦うために、三好方として奈良に出兵、東大寺に駐留したこともある。松永久秀はその東大寺を襲い、大仏殿を焼失するという天下の大罪を犯していた。三好方にも責任なしとは言えないと思うが、織田信長はこのことには目をつむることにした。信長は和泉国池田を永く領有してきた物部伊居太足尼の子孫池田氏の財力と支配力とを認めて領地を安堵した。人質は取ったが、後に勝正を摂津守護の一人とした。信長はさらに松永久秀の方に組みしていた和泉国伊丹兵庫助忠親(伊丹城主)の降伏を認めた。
信長は軍を返して、芥川城(居館)に戻った。そこに、足利義輝将軍を殺した松永久秀が信長に恭順の意を表しに現れた。久秀は信長の茶器蒐集の趣味を知っていて、天下の名品を携えていた。久秀は永禄8〜9年頃から、三好三人衆と仲たがいし、大和各地で戦いを引き起こし、信貴山城を失って多聞山城に逼塞の状態であった。久秀は三好衆が籠る奈良東大寺を焼き討ちして大仏殿を焼失させたので悪名を馳せていた。信長は意外にも悪人久秀に大和の国切り取り次第を許した。気を見るに敏な久秀は将軍義輝を殺した後、尾張小牧城の織田信長に贈り物を捧げて歓を通じていた。先見性を持っていた久秀の外交勝利であった。信長は久秀と一緒に現れた三好長慶の養子「三好義継」には、河内の若江城を安堵し、河内国上半国を領知させた。
さらに、久秀と前後して現れた畠山高政には河内高屋城および河内下半国を安堵した。長く河内国と紀伊国を領有支配してきた管領家畠山一族の地権を認めたのである。河内国羽曳野古市(ふるいち)にある高屋城は管領家畠山氏が最近まで本拠地としてきたところである。この城は安閑天皇陵の古墳を利用して本丸とする戦国ならではの城であった。築城は文明・明応(1469〜1501)、畠山基国か畠山義就とされている。天皇霊を辱めたその所為か畠山氏はこの城を幾度も失い零落していた。
畠山高政は信長が上洛したこの時42歳。天文19年(1550)に父「畠山政国」のあとを継いでから、三好元長その嫡子三好長慶の堺進出や河内侵入を受けて、20年近く対立抗争と和睦を繰り返していた。高政は重臣の安見宗房(やすみむねふさ)や河内守護代「遊佐長政」の傀儡でしかなく、4度も高屋城を追われる不安定身分であった。永禄11年(1568)、高政が信長と会見した時は三好義継との和睦が済んだあとで、尾州家畠山の当主として高屋城に復帰していた。
だが、翌、永禄12年に重臣遊佐信教に高屋城を追い出されて、紀伊に移ることになった。国主の座を追われたのであり、紀伊国に隠居させられたのである。高屋城は弟「畠山昭高」に預けられた。これは4年後の話であるが、天正元年(1573)、遊佐信教に謀殺される始末であった。そのとき、昭高は織田信長の妹「お犬」と結ばれていたので、畠山家の重臣遊佐派は昭高の義兄信長から攻撃を受けることになった。
ところで、芥川城の足利義昭は、目の前に兄義輝を殺した松永久秀を見て、信長の対応が面白いはずがない。信長は、義昭に対して我慢を願い、三好衆を抑えるために目をつむるということを説明した。かわりに、信長は義昭の窮状を救った「和田惟政」に芥川山城と芥川館を預けることにした。惟政は池田城筑後守勝正、伊丹兵庫助忠親と三人で信長の畿内における奉行として新将軍義昭に忠勤を励むことになった。
永禄11年末まで、信長のまわりに朝廷、公家衆、幕臣、寺社人、武家、商人が入り混じって動き回った。上洛の処置が一段落したところで、信長は永禄11年末に岐阜へ還った。ところが、永禄12年(1569)正月4日、まだ正月気分がまんいつしている雪の京都に、三好長逸と三好山城守康長が都に現れた。この三好康長は甥三好長慶援けて、三好政権を永く支えてきた三好一族の重鎮であった。長慶の死後、三人衆が松永久秀と対立すると、三人衆支持の旗色を鮮明にしていた。康長は永禄11年6月、松永久秀の拠点である信貴山城を守備していた細川藤賢を襲って、城を攻め落とす戦果を挙げていたのである。これが織田信長の上洛直前の大和の戦乱模様であった。
信長に信貴山城を明け渡した後、阿波に引き揚げていた三好康長は、畠山昭高(あきたか)を謀殺した遊佐信教がいる高屋城に復帰して、元亀4年の信長包囲網に加わった。この包囲網は将軍義昭の敗退、三好義継の若江城での自刀、淀城での岩成友通の討死、三好長逸の摂津中島城敗戦と消滅など、三好勢の総崩れとなり、康長は信長に降伏することにした。天正3年7月、高屋城の戦いで敗退すると、足利幕府の幕臣松井友閑を通して、三日月葉茶壷を信長に献じた。これが功を奏したのか、後日、四国三好家の人脈と浄土真宗教徒とのつながりを生かした外交で手腕を発揮して、織田信長の天下布武作戦の推進に大いに役立った。
三好長逸らは信長が永禄12年正月の間、岐阜にいるうちに、京都六条本圀寺を取り囲んで、新将軍を討ち取ろうとした。三好軍の中に信長から岐阜を追い出された斉藤龍興がいた。本圀寺には明智光秀の兵と義昭の馬回りの少数の兵しかいなかった。三好軍は手間暇かけずに、寺院ごと丸焼きにしようとする騒動だった。騒ぎを知って最初に駆けつけたのは顕如から派遣された雑賀孫一の鉄砲隊であった。本圀寺を取り巻く三好党の背後に鉄砲玉を浴びせかけた。まもなく、長岡から細川藤孝が応援に現れ、翌日、池田から池田勝正、伊丹忠親の家臣荒木村重、河内若江から三好義継が支援にかけつけた。更に次の日6日、近江の大雪を越えて、岐阜から信長が駆けつけた。3日の距離を2日で乗り込んできたという。やがて、三好衆は追い払われた。
織田信長は三好勢の襲撃に懲りて、将軍のために、義輝が住んでいた武衛屋敷の跡に堅固な将軍館を建てることにした。支配が及ぶ限りの広域の武将に朱印状を出して、築城協力の号令をかけた。これが二条館と呼ばれる義昭の居館である。早くも永禄12年(1569)4月に完成したが、信長の熱心な陣頭指揮もあり、防備に優れた美麗な足利御所が出来上がった。池庭には細川藤賢の屋形と銀閣寺にあった石を鳴り物入りで、にぎやかに引き出して据えた。警護厳重な城を早く作り上げるために、畿内外の石工と石材が強引に集められたという。将軍が感謝の気持ちを表しながら新館に居住したのを確認して、信長は都を離れて岐阜に戻った。 |
|