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6.新しい将軍の出現
信長は武将として抜きん出て勇敢で戦上手だが、治世について旧来の制度にこだわらない自由な発想ができる政治家であった。古くから続いてきた政治制度を適当に利用しながら、旧弊を捨てて新しい制度を作る工夫する度量の持ち主であった。中世の政治体制の中枢に居座る公家と武家、政治体制に組み込まれながら農民、商人を支配する既成宗教は信長政治の標的であった。商人が寄り合う京都下京区、自由都市堺、一向宗信徒が寄り合う惣、比叡山門が支配する庄園、土着の豪族が支配する領地などは信長が畿内進出したときの禁制と支配の対象であった。
信長は上洛して新しく支配した摂津、山城、和泉、河内、大和、近江の諸社寺に禁制を下した。各寺と神社に所領を安堵したり取り上げたりした。矢銭も課した。石山本願寺顕如は京都御所修理を理由に、信長に五千貫を所望された。これまで朝廷から保護を受け続けてきた延暦寺、興福寺、法隆寺なども例外ではなかった。守護や土豪ら既成勢力と結びついて農民。商人を支配していた既成宗教と神社の権益を信長は次々と取りあげたり安堵していった。
信長が尾張から美濃・岐阜に進出したときも、神社、寺の所領の安堵と禁制を下してきた。正親町天皇は朝廷領の貢租取立ての以来を信長に出した。朝廷には金が入らず、幕府の指示は荘園主に及んでいなかった。足利幕府の威令が行き届かぬこのとき、主上から直接貢銭取立ての依頼が出たのである。時代を象徴することであった。ここから、朝廷と信長との密接な関係が生まれていた。
信長の領知は進んでいた。領内では門前町の楽市を奨励し、関所を廃し、楽座を作らせた。また、交通の要所の住民に駅の仕事を与え、役を免除するなどかずかずの施策をおこなった。畿内でも同じ方針で商業・交通・宗教の自由な社会の形成をめざした。たとえば、近江湘南の瀬田中に対して、湖上通行事業の朱印を与えて年貢を免除した。新しい宗教キリスト教の宣教師ルイス・フロイスが都での布教の許可を求めてきたとき、仏教徒の反対を抑えて布教活動をゆるした。進取の気性に富む信長は我が国の学問・文化と異なる欧州のそれに興味を抱いたのである。為政者としての考え方は開放的で、進取的であった。信長が支配する町には活気があった。
信長は新将軍足利義昭が畿内の治世を行うのをしばらくは容認していたが、公平さを欠き、旧態にこだわる義昭の処置に、信長は不満を抱き、永禄12年の春、「殿中御掟」を将軍に送りつけた。義昭に袖判を点かせた箇条のなかには、将軍の間違いを牽制するする規制が盛り込まれていた。直接の諌め状になっていない書状にした信長の苦心がわからない義昭だった。思慮を欠く行動が多く賢さが足りない直情型の精神の持ち主義昭。彼は自分の手足を縛るような「御掟」に挙げてある掣肘に従う気がなかった。将軍の権威を放すまいとして、信長をいらだたせるばかりであった。
岐阜から中山道、南近江を通り志賀経由京への大道を確保した信長は、今は鈴鹿山脈の東麓伊勢から山越えして近江路に出る東海道と、同じく伊勢から伊賀を通り山城・奈良に達する大和路、双方を支配したいと考えていた。北伊勢と南伊勢を織田家の領地とすれば、中山道にくわえて、近江東海道と大和道の三つの往還を手中にすることになる。経済・軍事面で極めて有利な立場に立つことができるので、政治家として信長は当然、南伊勢の確保を狙った。
畿内での処置が大方治まったので、永禄12年(1569)9月、信長は岐阜から南伊勢に出て侵攻を開始した。北伊勢と中伊勢はすでに支配が終わっている。南伊勢は鎌倉時代末期から北畠家が勢力を持っていた地域で、南北朝時代南朝を支える南朝を支える武家として活躍してきた。同年9月に2度目の信長の攻撃を受けた宗家北畠大納言具教(とものり)は五十余日の籠城ののち、嫡男「北畠具房」の猶子として織田信長次男信雄(のぶかつ)を貰い受けることにして信長の軍門に下った。
南伊勢を攻め落とした信長は南伊勢から京に入ろうと、鈴鹿山脈東の千草から根ノ平峠を越えて八日市を通るいわゆる「千草越え」をして、大雪の中、近江道に行軍してきた。都には10月11日に着いて、二条館の将軍に報告に来た。「何故に断りもなしに北畠を討った」と将軍は信長を責めた。歴史ある北畠家の領地を奪取するには手管と理由が必要だ。苦心の末、織田家の次男信雄を猶子にしてもらうことで今回は妥協して置いた。北伊勢には三男信孝を押し込んだし、中伊勢には弟織田信包を長野家の猶子として入れてある。あとは伊勢全域を織田家の実質支配すればいいと信長は考えた。だが、この考えは誰にも明かすことはできぬ。もちろん将軍義昭に説明することではない。
北畠具教を攻撃したことを将軍から難詰されて、信長は返答のしようがなかった。相手の言葉を腹の中に飲み込む腹芸ができぬ将軍に対しては、説明の言葉が見つからなかった。信長はそのまま、岐阜に帰ってしまい、事情を知らぬ人たちは信長の不機嫌だけを恐れた。正親町天皇は「女房奉書」で信長をなぐさめたといわれる。甲賀の土豪から今や信長の忠臣となった「和田惟長」が将軍の懇請により岐阜に来たが、怒れる信長に面会もかなわず京に帰った。 |
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