|
7.信長の戦略
明けて永禄13年(1570)、信長は岐阜で三度目の新春の宴を催した。招待客の中に細川藤孝が交わっていた。信長の怒りを恐れた将軍の謝意を伝えるため、二番目の使者藤孝が、信長の歓待を受けて、岐阜に長く留まっていたのである。この年は4月23日から年号が「元亀元年」となった。信長の歴史回天の年である。信長は義昭から将軍の権限すべてを取り上げて「天下布武」を進めようとしていた。守護をしのぎ足利将軍を意のままに動かすまで強大になった信長。その信長が石山本願寺との十年戦争に突入してしまった運命の年でもある。
1月23日、信長は明智光秀に将軍宛て「条々」を持たせて、藤孝と一緒に都に帰した。五箇条からなる「条々」には信長の爆弾宣言が入っていた。宛名には朝廷の申次衆「朝山日乗上人」と信長の取次衆明智光秀になっていた。義昭と折衝する二人に異見を申す形をとなっていて、将軍への直接諌め状になっていず、義昭は袖判を押すだけでよい。信長の苦心の申し渡し状だった。
曰く
「諸国へ御内書をもっておおせださるる仔細これあらば信長に仰せ聞かされ、書状を添え申 すべきこと」
「御下知の儀、皆もって御棄却あり、そのうえ後思案なされ、相定めらるべき事」
「公儀に対し奉り、忠節の輩に御恩賞、御褒美を加えられたく候といえども、領中などこれな きに於いては、信長分領の内をもっても、上意次第に申しつくべきの事」
「天下の儀、何様にも信長に任せ置かるるの上は、誰々に寄らず、上意を得るに及ばず、 分別次第に成敗すべきの事」
「天下御静謐の条、禁中の儀、毎度御油断あるべからずの事」
佐藤雅美「幽斎玄旨」
「条々」を見て義昭は怒った。これまでの下知をすべて認めない、新しく出す御内書は信長の添え書きをつけること、天下のことは信長の思うように仕切り、将軍の同意を得ることはしない、と恐ろしいことが書き付けてある。明智光秀は将軍に拝謁、袖判を貰ったが、藤孝には将軍からねぎらいの言葉もなかった。
「条々」第四条に挙げている「天下の儀、信長の分別次第に成敗なすべき事」として、信長は朝倉義景の討伐を考えていた。また、第五条に「禁中の儀、御油断あるべからずの事」というのは、朝廷に対する武家の忠誠を求めることで天下布武を実現したいと願っていた。信長は「条々」を義昭に突きつける寸前に、朝倉義景に、「禁裏と幕府のことで相談したい。上洛をされたい」と書き送っている。そして、諸大名に「禁中御修理、武家御用、いよいよ天下静謐のため」と号令をかけた。 |
|