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1.小牧長久手の戦い
ますます調子が上がってきた秀吉の手の上で踊らされたように、信長の後継者であることを任じている織田信雄は愚行を重ねていた。信雄が所有する安土城の再建と修築はいつの間にか秀吉の担当となり、信雄は安土城から離れることになった。三法師だけが安土城に残った。信雄は秀吉を憎むようになっていた。信雄の放火で焼失した安土城の本丸、天守閣など城の中心部は再建されなかった。安土城下町の八幡浜あたりは秀吉の姉(とも)の子、三好(木下)秀次に渡された。
秀吉から天正12年(1584)の年賀参賀を促された信雄は秀吉に対する敵愾心を抱き、両者の関係は次第に悪くなり始めた。信雄は伊勢・美濃・尾張の支配を焦るあまり、天正12年3月、有力な家老三人、津田玄蕃允義冬(伊勢松ヶ島城代)、岡田重孝(尾張星崎城)、浅井田村丸(尾張刈安賀城)に秀吉の引き剥がしの手が伸びたということで謀殺してしまい、近臣の恨みを買った。この愚行を秀吉から追求されることになった。「信雄殿のなさりようは」と諸将から嘲笑を受ける有様であった。とても俊敏な信長と賢い生駒吉乃との間に生まれた子息とも思えぬ暗愚さであった。秀吉から脅された信雄が頼ったのは徳川家康であった。
その成り行きから、秀吉と徳川家康との直接対決が避けられなかった。これが天正12年(1584)の3月から11月まで続いた小牧・長久手の戦いである。天下支配を視野に入れた秀吉と家康との歴史的対立の始まりであった。
もう少し、織田信雄の動きを追いかけることにする。天正12年(1584)3月、信雄は家康を頼んで小牧・長久手の戦いに突入した。小牧は信雄の居城清洲城の北方に位置する。信雄の頼みで、家康は3月初旬、岡崎を出て、中旬に清洲さらに尾張小牧に出動した。秀吉軍は東美濃方面から尾張に侵入していた。ところが、岐阜大垣城には池田恒興が城主として張り付いている。また、東美濃には兼山(かねやま)城に森長可が勢力を誇っていた。この二人の義理の親子はこれまで、親秀吉派として柴田勝家派の駆逐に協力してきたのだが、秀吉はこの人脈を利用した。3月13日、池田恒興が突然、木曽川東岸の犬山城を急襲して占拠してしまった。また、森長可も小牧に侵入、家康が入城した小牧山城に対峙した。恒興と長可二人は示し合わせて信長の翼下から離れていたわけで、秀吉の策略が成功したことになる。
秀吉軍は4月上旬に小牧の南部の長久手から、南東方向に、徳川領三河を目指して大移動を開始した。侵入旅団の兵力は約二万、三好秀次を総指揮者として、池田恒興・森長可・堀秀政・三好秀次の四軍に分かれていた。これを小牧山城にいた家康は見過ごさず、城を出て三好軍を追尾、折り返してきた恒興と長可を討ち取ってしまった。秀次軍は孤立してしまい、戦上手の堀秀政の救援がなければ三好秀次の命は危うかったといわれる。秀吉軍は局地的に惨敗を喫した。家康は再び小牧山城に帰り、城を修復して秀吉と対峙した。それから、小牧の戦いは長引き、膠着状態になったので、秀吉は5月に一旦、大坂に引き上げた。秀吉は大坂城の築城と紀州雑賀党の摂津侵入にも対処しなければならなかった。6月中旬、秀吉は近江佐和山城そして伊勢椋本に姿を現し、6月の「蟹江城」攻防戦の和睦交渉に入った。蟹江城の争奪戦は徳川家康水軍の力が勝り、復活を賭けた滝川一益が一時奪った蟹江城は家康軍のものとなり、一益は海上に逃れるのがやっとであった。徳川軍は桑名城に入った。
蟹江城を占拠して清洲=桑名の戦線に楔を打ち込もうとする滝川一益の戦略は優れた策であったし、九鬼嘉隆水軍を秀吉側に引き入れた功績があった。また、尾張前田一族の城を丸ごと秀吉側に抱え込もうとする作戦はさずがであった。だが、滝川一益は秀吉との合戦で戦いに強い部下をすでに手放していたので、事は作戦のようにならなかった。
蟹江城合戦で秀吉側についた前田一族は結局、蟹江城、前田城、下市場城を出て、加賀前田家を頼ることになった。織田信雄の命令で蟹江城を離れていた織田信長の旧家臣、佐久間正勝は幸運というべきか不運というべきか、戦局の中心人物となれなかった。
秀吉は伊勢に羽柴秀長、丹羽長重、堀秀政ら六万二千の兵を終結させて、美濃から木曽口の木曽義昌を6月に攻撃すると宣言していた。織田信長の死去で失った信濃織田領の復活、さらに、北条氏政や越中富山城の佐々成政を牽制しようと目論む遠大な計画であった。徳川家康に圧力をかけることにもなる筈であった。
だが、小牧・長久手の戦いの幕を引き、そして、ただちに信濃に侵入するには戦力的に無理があった。織田・信長のとき、駆け引きすぐれた信長指揮のもと、森長可ら東美濃軍が木曽口から侵入したようには、今度はうまくいきそうになかった。小牧・長久手の戦いでの森長可の戦死は痛手となった。それに、羽柴秀吉は従三位権大納言を受ける準備期間も必要で、急ぎ京へ戻らねばならなかった。武家の頭領として、羽柴秀吉は官猟工作にも忙しかった。
秀吉は天正12年8月中旬に美濃、下旬に尾張田楽に再び出動した。まことに忙しい秀吉である。戦略を練ってふたたび小牧に現れた。秀吉は別働隊蒲生氏郷に信雄領の北伊勢と伊賀を後方攪乱させていた。信雄はこれにはたまらず、秀吉からの講和提案に引き込まれた。和睦は天正12年11月11日に成立。そして、信雄は伊勢半分と伊賀とを失うことになった。蒲生氏郷軍は伊勢半国、脇坂安冶は伊賀を預かった。伊勢松ヶ枝城には蒲生氏郷が封入された。ならびに、岐阜城には織田信長四男羽柴秀勝(秀吉の養子)が入城した。秀吉の思惑以上にことがすすみつつあった。同年11月21日、計画通り、秀吉は従三位権大納言に叙任された。
家康は戦う「義」がなくなり、11月中旬、岡崎に引き揚げ、信長の遺産と軍団を引き継いだ秀吉に対抗する姿勢を続けた。家康と秀吉の外交戦はこれから2年の長きにわたった。少しばかりの紙面では詳細を描ききれない。小牧・長久手の戦い後の天下指揮者を目指す二人のやり取りは端折ることにする。
小牧・長久手の戦いの手打ちが済んで、越中で孤立する佐々成政の悲鳴が聞こえてくるような軍事情勢になった。でも、家康は動かなかった。天正12年12月中旬、浜松に雪の立山連峰を越えた成政が突然現れて、秀吉に対抗する軍事行動を家康に要請したが、やはり家康は動かなかった。佐々成政は再び、雪の難所を通って命がけで富山に戻った。
秀吉は翌13年3月、朝廷から正二位内大臣に叙任・任官された。武家としての天下支配に有難い叙勲である。小牧・長久手の戦いのとき、紀州の雑賀党にさんざんかき回されたので、秀吉は天正13年3月中旬、紀州の掃討にかかって、熊野にまで戦火を広げていた。朝敵といわんばかりに熊野と紀州の勢力を駆逐して、紀州の水軍を追い詰めていった。
新しい内大臣は朝廷の権威を嵩に着て、紀州の勢力を排除するばかりでなく、四国を制覇する気でいた。すでに四国をほぼ制圧してしまった長宗我部元親を打ち倒すことにしていた。こちらの遠征は弟羽柴秀長に委ねた。秀長軍は毛利勢の助力を得て、同13年3月中旬四国に侵入、早々と同年7月下旬に元親を降伏させている。
秀吉は天正13年(1585)6月、越中富山城に拠る佐々成政を、「富山の役」動員令で越後・上杉景勝、越中・前田利家、越前・丹羽長重、若狭・蜂屋頼隆、越前大野・金森長近ら十万の軍勢で包囲する全面作戦で動いた。
織田信長をまねて、公家を献金と荘園領地復権を武器として取り入り武家の頭領となることを目指した秀吉であった。だが、彼は武家の出自でないので、征夷大将軍になることができないと見極めると、一転、公家社会の最高権威「関白」をめざした。頭領がだめなら公家になるというのである。
「関白」とは天皇や摂政と太政大臣との間に交わされる政務文書「公文書」をまず、内覧して、意見を白す(もうす)地位にある公家の最高権威である。五摂家しか関白になれないことになっていたのであるが、関白位を盥回しているうちに、摂家の内紛がしばしば起こる。天正13年当時、関白二条昭実と次期候補左大臣近衛信尹とが地位をめぐって争って、裁定を内大臣羽柴秀吉のもとに持ち込んできた。
秀吉は自分が関白になることで、争いを収めさせてしまった。なんとすばしっこい動きをする男であろうか。まず、近衛前久(さきひさ)の猶子となり摂家の一族になってから関白に就任した。天正13年7月11日のことである。平安朝の公家政治始まって以来の珍事である。
近衛前久は朝廷方を代表して織田信長とやり取りした摂家の実力者である。秀吉はどのくらいの金子を用意したのだろうか。霞を食って生きていけない気位が高い藤原公家に、びっくりするほどの金と屋形の修築費用を提供したらしい。そのほかあらゆる賂の網掛けを公家たちに投げかけていた。
秀吉は7月11日に関白の宣下を受けてから、天朝の最高権威を持って、佐々成政征伐に遠征、自ら富山城を大軍で囲んだ。織田信包も伊勢から応兵していた。天正12年の小牧・長久手戦で、秀吉に屈服した尾張の織田信雄はその後、秀吉との関係をどうやら小康状態で保っていた。同13年8月、越中の富山の役に五千の兵を引き連れて関白秀吉軍に加わり、先遣隊として越中富山の白鳥城に陣を張った。
8月は風雨が多く、野営の秀吉軍は甚大な損傷を受けたらしいが、戦闘らしきものは少なかった。佐々成政は領内すべての城壁の将兵を三重の堀で囲まれた浮城「富山城」に集めたが、秀吉軍との戦力差は、如何ともし難いところだった。成政は秀吉軍のなかで最大の兵を抱えていた旧主の次男織田信雄に降伏の意志を伝えた。戦意を失った成政を秀吉の足元に連れてくる役目を果たした信雄は長い間敵対行動を続けてきた成政、秀吉両者の仲裁をすることができたので面目がたった。
8月29日、剃髪した佐々成政は「白鳥城」にきた秀吉の前に現れてひれ伏した。織田信雄のとりなしでやっと成政は助命されたが、越中新川郡を除きすべての領地を召し上げられ、妻子全員が秀吉のもとに置かれた。成政自身は秀吉のお伽衆として、屈辱の勤めを果たすことになった。越中三郡は前田利家にあたえられた。守山城に前田利長、木舟城は前田秀継、増山城に山崎長鏡、白鳥城は岡嶋一吉、そして、城生城は青山佐渡が入った。
秀吉軍は同年閏8月、飛騨高山の姉小路飛騨守頼綱(三木自綱)を攻めた。関白は金森長近を越前大野から、九頭竜川沿いに飛騨地方に西方移動させた。佐々成政と組んで、飛騨地方を支配していた姉小路氏はかっては上杉謙信に従い、謙信の死去後は織田信長の配下に転じた変わり身の早い武将だった。信長亡き後は、佐々成政と提携して飛騨国を支配していた。
姉小路頼綱は、夏には桜洞城、そして冬には松倉城と呼ばれる広大な内庭を所持する領主であった。成政から離れて飛騨の山中で孤立した状態になってしまっては、この謀将は金森長近に抗すべくもなかった。長近に高堂城を攻められて降伏、やがて京都に送られ幽閉された。天正14年、飛騨国は金森長近が領治することになった。
天正13年11月29日亥の刻、岐阜県北西部を震源とする激震(天正大地震)が発生。マグニチュード7.9〜8.1の広域地震は石川、福井、愛知、岐阜、高山、志賀、京都、奈良などに広がり、12日間も余震が続くという巨大な地震となった。大きく高い構築物、建築物は例外なく壊れた。その時、秀吉は琵琶湖畔坂本に在った。急ぎ京都へ移動、被害の確認や手当てに数日を過ごし、12月4日大坂に帰り着いた。普請中の城も無事ではなかった。このときの地震の範囲と規模は1891年(明治21年)の濃尾地震を上回るものである。
天は時の支配者秀吉や配下の領主たちに祝福を与えることはしなかった。地震は秀吉にとって懲罰の意味を持った自然からの応報であった。そして、大地震の災害は秀吉との争いに明け暮れた武将たちへの懲戒でもあった。
天正13年は戦史の上から、重要な屈折点であったが、天変地異の大事が起こった折れ目の年でもあった。小牧・長久手戦で秀吉と家康は天下をめぐって大争乱を演じていたころから、前触れ地震が幾度となく起きていた。同13年11月中旬、そのころ地震の予兆が多くみられた。
白雪が飛騨の山々を覆い、白川そばの帰雲城(かえりくもじょう)も真っ白な衣を着て佇んでいた。あたりはうす霧を思わせる細かい粉雪が降っていた。月の明かりがあるので、ほの白い夜景が拡がっていた。帰雲城の酒宴も終わったらしくかすかなさんざめきが後ろの山にこだましていた。京から招いた能楽師の謡いも仕舞い、時折、笑い声が響く夜九つ半(午後11時)ごろであった。遠くに雷鳴が点滅したかとおもうと、突然突き上げるような直下型の地震がおきた。後ろ山から前谷にかけて、積雪の地表なだれに続いて、爆発音のような音を響かせて地すべりが起こった。白川にたまっていた水もろとも土砂が集落を襲った。高みにあった城は消えていた。城にいた招待客も村の住民も一瞬のうちに消えた。
佐々成政の要請に従って、富山に出動していた帰雲城の兵士は、越前大野から金森長近が飛騨地方に侵入してきたとの知らせを受けて帰城した。飛騨の姉小路頼綱(三木自綱)が高堂城を攻められて、降伏したので、帰雲城の内ヶ島為氏も金森長近に降参した。関白秀吉の許しが出たので、所領と城が安堵された。この11月29日、領民と城士がともに祝いの宴を開いていたのであった。金堀衆として認められていた内ヶ島一族六百名は瞬時にして消滅した。
天正13年の秋、秀吉は湯治と称して、有馬温泉に現れて、心頼みしている毛利の武力と財力を目当てに、小早川隆景と膝突き合わせて話し合いに入っていた。交渉の初めは毛利の西日本の領土を関白の領地と交換することであった。これは無理というもので、、毛利家の拒絶となった。それではと、秀吉は正室ねねの甥、木下秀秋を毛利家の継承者に押し込もうとした。これも無理な話であった。苦渋の小早川隆景は毛利家の代わりに、育ち損ないの若者を小早川家の養子にと申し出たのであった。筑前博多は抗して秀吉の直轄地となった。
信長が本能寺の変で横死すると、この時を「待ってました」とばかり、羽柴秀吉は天下を狙う野心を隠さず、織田家中をほとんど平らげてしまった。唯一残った政敵徳川家康の懐柔に成功してから、新しい天下様の領土の関心は東アジアに向いていた。だが、国力、民力、兵力、文化を考えると、秀吉が東アジアに日本兵を展開しようと考えることは将に「井の中の蛙大海を知らず」であった。道案内を要求した朝鮮さえ支配することが出来ず秀吉は破滅に向かって盲進するだけであった。
織田家の零落と羽柴家の騰勢は表裏をなすもの。秀吉の天下取りの中で、多くの武将とその奉公人が犠牲者となった。織田信長の子息たちは安泰ではなかった。織田信雄は秀吉の敵ではなかった。信雄は寄騎津川義冬(伊勢松ヶ島城)、岡田重孝(尾張星崎城)、浅井田村丸(尾張刈安賀城)に秀吉の引き剥がしの手が伸びたということで、三人を謀殺してしまい、近臣の恨みを買った。小牧・長久手の戦いでは家康の了解も得ずに、勝手に秀吉の和議の誘いに乗り、家康の立場を失わせた。信雄は秀吉の後北条征伐には従ったが、戦後処理のとき、秀吉の領国配置を断ったので信雄は追放された。織田信長の後継者を自認していた。無能の大名は哀れな身分に転落した。
信長の三男、織田信孝は柴田勝家を頼み、秀吉・信雄と二度戦い、天正13年春、岐阜城に孤立して降参した。秀吉はこれ幸いと知多半島の避難先の信孝を殺した。信孝の母は織田信長の側室板氏である。関氏一族の歴とした縁者であった。皆まさかと思ったが、大恩人信長の側室と信孝の娘まで殺す秀吉の残虐さには皆慄然とした。
信長の四男、於次丸は幸いにも秀吉の養子であったために、信長の後継者を狙う秀吉にうまく利用されて羽柴秀勝として丹波亀山城をもらった。皆からは「丹波中納言」と呼ばれた。秀勝を名乗ったいた時、秀吉の天下取りの中で、信長の子息といえども身分は安泰でかなった。小牧・長久手の戦いまで参戦したにもかかわらず、政権から遠ざけられ、何故か病弱になり、天正14年に死んだ。秀吉から毒殺されたといわれる。秀吉の姉、とも(日秀)の男の子三人、秀次、小吉、秀保が成長してきたので、於次秀勝は信長の遺族として利用価値が少なくなり、秀吉から暗殺されたといわれる。美濃と伊勢の織田領はこうして秀吉から取り上げられた。そして、後北条征伐の後、信雄の尾張・北伊勢も秀吉から取り上げられ、織田宗家の後継者とみなされるものは織田家にはいなくなった。 |
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