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2.小田原の役 秀吉全国制覇へ
秀吉の弟羽柴秀長の四国遠征と関白秀吉の九州遠征の結末を省略して、後北条氏との合戦の話しに入る。時は天正18年(1590)に飛ぶ。
九州遠征を終えて、天正18年正月、秀吉は全国諸将に小田原征伐に参集するようにお触れを出していた。小田原征伐に加わった軍兵は陸海合わせて二十万余といわれる。関白の集兵力は急激に膨れ上がっていた。関東を支配している北条氏を追放しようとする秀吉の意図は、関東以北のすべてを支配して、諸大名を配置替えしたいということであった。
関東の覇者北条家は小田原城を本城として、関東、房総、相模の広大な支配地を持ち数多くの支城を抱えていた。徳川家康の駿府と境を接し、武田氏滅亡のあと強大な武力を誇っていた北条氏。この北条氏と同盟関係にある徳川家康の同意なしに、小田原征伐に乗り出すことは秀吉といえども不可能なことである。秀吉はどうやって家康を説き伏せたのだろうか。秀吉は妹、朝日姫を家康に嫁し、母を家康の人質として差出し、家康と縁者となるなど、苦心の数々を重ねていた。
まず、天正18年3月1日、秀吉は京都を出発。家康は2月20日駿府を出立。家康の軍勢は三万人余。豊臣軍の先鋒ととなった。以下、秀次一万人余、信雄一万五千人余、氏郷四千人余、忠興二千八百人余、筒井定次二千八百人余、浅野長政三千人余、宇喜多秀家四千人余、蜂須賀家政二千八百人余、福島正則千九百人余が東海道筋から。黒田長政に豊前中津を守らせて、隠居の身となった官兵衛は四百の従者を連れて、小田原にあらわれた。
北陸方面からは上杉景勝一万人余、前田利家一万八千人余、真田昌幸三千人余、依田(松平)康国四千人余。海上からは九鬼嘉明、長宗我部元親、脇坂安治。このような集兵ができる権力者は秀吉を置いて外にない。この数字は、歴史研究家諏訪勝則氏の「黒田官兵衛」(中公新書)によった。北条方三万余の兵力では太刀打ち出来るはずがなかった。
立花宗茂が筑後封入のお礼言上の為に三枚橋城(沼津)の秀吉を訪ねたとき、豊臣侍従(旗本)宗茂を天下の諸将に紹介するのに、家康の武将本多忠勝を呼び寄せて「西の強将立花宗茂と東の強将本多忠勝だ」と持ち上げてくれた。両者にとってこれに優る名誉はなかった。
ところで織田信雄は伊豆「韮山城」攻防戦で戦功を上げることが出来ずに蒲生氏郷の支援を受けた。戦績評価と新領地配置のとき、信雄は秀吉の領国配置提案を断ったので、尾張・伊勢北部から追放された。徳川家康でさえも関東への鞍替えを断りきれずに受諾したのに、「織田家の本貫尾張を離れたくない」は拒絶理由と認められなかった。秀吉の頭の中には、北条氏を関東から追放して、後釜に家康をすえ、そして、駿河の国には織田信雄を移動することにしていた。秀吉は怒りの姿を見せて、織田家当主を出家させて、関東烏山に追放した。
こうして、天正18年頃には秀吉の競合相手だった信長配下の武将は総て蹴り落とされた。信長の四天王のうち柴田勝家、明智光秀はたたき倒された。丹羽長秀はいつの間にか秀吉配下になった。信長の奉行役に「はまり役」といわれた丹羽長秀は軍団長としては戦力が薄く、秀吉のように軍団の指揮者としては一枚譲るところがあった。織田信長の庶兄織田信広の娘深光院を室として信長に「吾弟である」といわせるほどの信頼を得ていた。「米彦左」といわれるほど織田家中では貴重な存在であったが、武にも強く、「鬼彦左」の仇名がつけられた剛直振りであったが、いかんせん、織田家を守り、活躍しなければならぬときに、病気で動けない不運に見舞われた。
小牧・長久手の戦いのとき、そして佐々成政討伐の騒ぎのとき、丹羽長秀は越前福井から出ることが出来ず。ばらついたままで結束できない織田一族の有様について切歯扼腕する思いであった。秀吉の誘いにもかかわらず、長秀は北の庄に移封してから、一度も上洛できないでいた。持病の胃病に苦しんでいたのである。嫡男長重は未だ若く、父親の代わりを務めることができなかった。
織田一族が追い落とされるのを見ながら、体の不調で動けなかった不運を嘆いた丹羽長秀は、わが肉体を切り取り、忘恩の秀吉に苦渋の心境を訴えたといわれる。天正13年5月に福井で死んだ。嫡男の丹羽長重は小牧・長久手戦、佐々成政征伐、それに北条征伐に加わったが、長秀の遺領が余りにも大きかったので、秀吉に配下家人の不始末を咎められ、いわば難癖を付けられたかたちで、小さな領国に押し込められた。秀吉は焼けた安土城の修復に丹羽長重を使いながら、長秀の遺産を消耗させる巧妙な手段を採った。
新天下様秀吉の周りには、独裁者に物申す人物が次第に減っていた。秀吉と天下を語れる武将は身近なところに、羽柴秀長、小早川隆景、黒田官兵衛など少数の知将だけとなってしまった。秀吉の関心は中国大陸と朝鮮半島進出にあり、数少ない指導者たちと談合にはいっていた。信長に反抗していた足利義昭将軍は京都に復活を望んだが、秀吉から体よく都を追い出され、毛利家の翼下から顔出しする哀れな存在になった。
千利休は秀吉の中国進出に反対して、殺されてしまった。織田信長には、武井夕庵という年長の祐筆がおり、外交について茶人の意見を取り入れながら、文書外交を展開していた。夕庵は京都のお馬揃えのとき、山姥の扮装で観覧者を笑わせていたという。その時、七十歳を超えていた彼は、役割を心得ていたというべきであろう。信長は老人夕庵の忠告に従う場面が数多くあった。一方で、関白秀吉もお伽衆を身の周りに置いたが、智者の言葉に耳を傾けることが少なかったではなかったか。二人の独裁者に、部下に接する違いがある。 |
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