|
3.新天下様の世界知らず
朝鮮半島に向けての外交はますます拍車がかかっていった。九州遠征の時から考えていた九州諸大名への朝鮮侵攻の手筈は着々とすすめられた。肥前名護屋城の築城、京阪から名護屋への陸路・海路の整備のため、黒田義孝(官兵衛)、毛利輝元、小早川隆景は秀吉からコマねずみのように働かされた。天下人秀吉の野望のために、西国の領主たちは渡海の準備を進め、渡海しない国の領主も九州に集められて、心ならずも戦乱の世を描き出す手伝いをした。
秀吉は身内を天下支配のために配置した。弟羽柴秀長が病死してから、豊臣政権の体制を組みなおした。秀吉の姉とも(日秀)の長男木下秀次を関白として、国内治政のために京に残した。秀次の経歴について、多くを記述しなければなかない。木下秀次は天下取りとともに歩んだ強運の持ち主である。織田信長の四国攻めのとき、秀吉策略として三好康長の養子として送り込まれ、三好信吉(のぶよし)と名乗った。
十五歳で賤ケ岳戦に参戦、小牧・長久手の戦いで徳川領三河への侵入戦に敗れ、秀吉の面目をつぶした。十七歳のとき(天正13年)、紀州雑賀攻め、軍功により安土の八幡山城四十三万石の領主となる。天正14年に豊臣本姓を秀吉から授与される。九州征伐には参加せず、天正18年の小田原の役で山中城攻略に成功、織田信雄の所領(尾張国・伊勢北部五郡)百万石を与えられる。翌天正19年、奥羽出兵。同年11月秀吉の子、鶴松が死去したので秀吉の養子となる。翌12月に関白となり、外征準備に忙しい秀吉の国内統治を援けることになった。
一本調子で天下様になった秀次はやはり秀吉を見習って身を誤った。豊臣家の資産を金繰りに困る諸大名に貸し付け、菊亭晴季の娘(一の台)らと酒池肉林の後宮生活を繰り広げて、世の顰蹙を買った。秀吉に二番目の子、秀頼が誕生したのに、政権移譲の意思を示さなかった。結局、反逆の罪に問われて、文禄4年7月、高野山に追放され、青巌寺柳の間で切腹となった。秀吉の怒りは凄まじく、秀次の首は京三条河原でさらされて、妻子三十九名が秀次の首の前で斬られた。これで、ただでさえ少ない豊臣家の係累と人材が少なくなった。秀吉、秀次を支えてきた前野将衛門ら家臣たちも多く殺されたので、秀吉政権の短命に繋がった。
日秀の二番目の子(木下小吉)は秀吉の九州征伐と小田原征伐に参戦、淀殿の妹「江」こと「小督(おごう)」を室とし、天正13年岐阜に移っていた。豊臣秀勝を名乗って、「隻眼の岐阜宰相」といわれていた。文禄の役で渡海したが、巨済島で戦病死してしまった。秀吉に対してあまり力になれなかった。むすめ(完子)を遺した。
木下秀保は日秀の三男。豊臣秀長の養子となり、秀長の娘と婚姻。「大和中納言」と呼ばれた。文禄元年(1592)、その豊臣秀保(大和中納言)14歳の若さで紀伊・大和の兵一万五千を率いて、肥前名護屋城に滞陣した。あまりにも幼すぎたので、半島に渡ることはできなかった。二年後、海外から帰国した守役藤堂高虎とともに上洛。病弱な中納言はやがて精神に異常をきたしたらしく大和に帰された。大和十津川で湯治中に、小姓に無理心中を仕掛けられ水死した。兄秀次と同じく暴虐を尽くしたらしく、賢い行動はとれなかった。養父羽柴秀長の娘「おきく」との間に子がなかったので豊臣秀長家百万石は改易となった。
秀吉の身内として扱われた宇喜多秀家は秀吉の猶子として「豊臣秀家」を名乗り、父直家から引き継いだ備前岡山の大藩の大名ながら、文禄の役に渡海して、日本軍の方面指揮をとった。帰国後、豊臣秀頼方として関が原合戦の旗揚げをしたが、人望がなく、石田三成のように豊臣方武将として指揮を満足に取れなかった。戦に負けて、関が原戦場から離脱、鹿児島に逃れ隠れ住んだ。
秀家は豊臣侍従として、秀吉の旗本の地位にあったので、豊臣家中では秀吉の権威を背景に、武家として気ままな振る舞いをして憚らなかった。同じ豊臣侍従の立花宗茂を目の仇として、数々の対立事件を引き起こしている。侍従伏見屋敷の矢かけ騒動、朝鮮戦場の碧蹄館の功名争い、秀秋と謀った宗茂暗殺と毒殺計画など、数々の騒動で宗茂に迷惑をかけている。秀吉の家中として、関白を真似た生活をおくり、家人の統制に悖るところがあって、秀吉没後に宇喜多騒動を引き起こしてしまった。同じ大老徳川家康の力を借りてようやく事件を収めることができた。この事件で有力な家臣を家康側に走らせてしまい、関ヶ原合戦の帰趨に影響するような戦力となってしまっている。
同じく秀吉の身内として、政所(寧々)の実家杉原家の人たちを紹介しておく。「寧々」の兄杉原家定は冠位従二位まで引き上げてもらったが、武将としての力量はなく、姫路城を預かりながら、秀吉を支えるところが少なかった。関ヶ原合戦の時は京都所司代として、東西どちらにもつかず、戦後、家康から備中足守藩二万五千石を貰った。足守藩初代藩主である。城は築かず陣屋を構えた。足守藩は幕末まで続いた。家定は秀吉の要請で、晩年は木下姓を名乗っていた。僧籍の周南紹叔を含めて8人の男子に恵まれた。長男の勝俊と次男の利房は武田元明の遺児であり、秀吉の側室となった京極龍子(松の丸殿)を母とする。杉原家定が二人の子を預かった形である。実の子は6人ということになる。
長男「木下勝俊」は若狭国小浜城六万二千石を領していた。次男「利房」は若狭国高浜城を貰っていた。いずれも実父元明と関係の深い領地である。勝俊は武人というより文人・歌人として名を成していた。関ヶ原合戦のとき、家康から伏見城松の丸守備を委嘱されながら城を逃れて、鳥居元忠とともに死ぬことを避けた。細川幽斎ら幾人もの文人が陰で支えたらしい。政界を引退後「長嘯子」といい、京の高台院(寧々)の南隣に住んだ。高台院に寧々と勝俊の像がある。寺内に墓もある。次男木下利房は大坂の陣後に、養父家定の遺領足守藩を継いだ。そして三男木下延俊は朝鮮遠征にかかわり、大分日出藩に在った。四男木下俊定は和泉国岸和田城の小出秀政(秀吉家臣)の元に出ていた。
「寧々」の甥で最も幸運のくじを引き当てたのが「木下秀秋」である。杉原家定の六男といわれる。秀吉が毛利家の当主にと談じ込んだおかげで、小早川隆景の養子となり、毛利輝元の養女を室とした。苦労知らずに育った出来の悪い若者であった。周りの人は「うろんのきみ」と呼んでいた。小早川秀秋は文禄の役で、武将としてあるまじき行為の数々を重ねて、岳父小早川隆景を困惑させ、朝鮮での与騎となった立花宗茂に迷惑をかけた。朝鮮から引き戻され、秀吉から名島城と筑前小早川領三十万石余りを取り上げられたとき、家康に援けてもらった恩義をかかえていた。これがあるため、関ヶ原の戦いのとき東西軍どちらに就くか去就を明らかにすることが出来ず、西軍大敗のきっかけとなった戦場での裏切りをした。家康の東軍側に変身したので、秀吉の身内でありながら、豊臣秀頼を援けることが出来なかった。戦後、悶々とした生活を送り、若くして岡山で死んだ。恨みを買って弟と一緒に暗殺されたとも伝えられている。どうみても、杉原家には豊臣家の柱となる人物はいなかった。
秀吉の身内には有能な武将は加藤清正、福島正則ぐらいと数えるほどしかいなく、蒲生氏郷は秀吉の期待に期待に応えることが出来ず、朝鮮戦役の最中に病死してしまった。秀吉の名代として朝鮮渡海した黒田義孝(官兵衛)は秀吉の側近として働くことは少なかった。晩年の秀吉を補佐したのは、名護屋城に滞在が長かった徳川家康であった。朝鮮における戦況不利を糊塗する外交使節小西行長に、奉行石田三成が懸命に事態収拾のため、介添えした。半分狂乱の老秀吉が頼ったのは老齢の前田利家、徳川家康、それに上杉景勝であった。朝鮮遠征は秀吉の死によって幕が閉じられた。
死の床で秀吉が取り出した辞世は
つゆとおき つゆと消えにし わが身かな なにわの夢は ゆめのまたゆめ
秀頼のことで狂っていた木下籐吉郎は辞世が読めるほどの耄碌であった。秀吉がいなくなったからは、石田三成、増田長盛、浅野長政、長束正家ら奉行衆が躍起となっても、落日の影は濃くなるばかりで、豊臣家の人たちの姿は次第に消えていった。夢のあとの現実は、豊臣一族にとって、厳しい戦国の嵐が待っていた。
まとめ
稀代の武将信長の短い天下のあと、稀にみる野心家秀吉の乱暴な政権取りが続いた。この異才人の天下もさほど長いとはいえない。信長が種を播き、秀吉が育てて、家康が収穫したという武家政治は幸運にも幕末まで伝承されて、王政復古の紆余曲折を経て、今、平民が主導する民主政治が営まれている。戦国時代に生きた庶民は総じて不幸せであった。貴人でも幸せばかりを享受できたわけではない。宗教にすがり希望を見出そうとあがいた人たちが大勢いた。古代からの神道ならびに伝来仏教が日本の歴史をかたち作ってきた役割を評価しなければならない。信長の考えには従えない。日本人の精神土台として、日本の宗教は今日まで脈々とわれわれの中に生きている。
本稿をまとめているとき、桜の花のシーズンになったので、家内と岐阜、彦根、安土、大津、姫路を周る旅に出た。歴史旅となった今回、この勉強ノートが生きた。これで、安土桃山時代の信長を初めとする時代群像が身近になった。石垣と堀ならびに城下町を観て、その時代の人の息使いを感じることができた。安土城の信長に拝謁できずに摂津に追い返された荒木村重の無念、光秀軍に遭遇した信雄が安土城下を放火して廻った愚行が私の頭を駆けめぐった。夕日に映える安土山と桜花の淡い風景を見ながら、光秀の無念の思いを想像した。
平成26年4月 嶋田六左衛門 善介 |
|