1.藤原氏栄華の跡

朝日が秋晴れの静かな町を照らしている。私はやや小高い「平泉駅」出口に降り立って、駅前の風景を見やった。平泉駅ホームに降りた200人ほどの観光客が観光巡回バスに乗る準備をしている。バスが出てくるには時間があったので徒歩で毛越寺(もうつうじ)に向かうことにした。駅から、西へ直線で2キロぐらいだろうか。夫婦二人組が、さんさんごごと歩いている。毛越寺に辿り着く直前、道右に稲を刈ったばかりの田んぼがある。こんなのどかな風景のところだ。平成23年、世界遺産として毛越寺は特別史跡・特別名勝に選ばれたので、最近急激に観覧者が増えた。テレビで紹介されることも多くなり、遠方から観光客が訪れるようになった。私のように。
平地7町歩、塔山15町歩の広大な敷地と背景となっている北側の「塔山」とで名勝をなしている。「仏国浄土を顕す建築・庭園および考古学的遺跡群」としてふさわしい平安の伽藍様式を残した風物は、日本の宝である。毛越寺は奥州藤原氏二代基衡、三代秀衡が造営した。当時の伽藍は中尊寺を凌ぐ規模で「吾が朝無双」と称されたという。当時の堂宇や庭園の遺跡が良好な状態で残された。赤塗の南大門は往時の造営物の煌びやかさを連想させるものがある。この大門北側にある庭園池を堂宇がぐるりと取り囲むように配置されている。池に引き入れる鑓水は背後の塔山から途切れることなく流れ込んでいる。池は浄土庭園の中心をなしている。私は鑓水の風景をカメラにおさめた。南大門傍に松尾芭蕉の立像がある。
     夏草や 兵どもが 夢の跡
           の句を詠んだといわれる。

毛越寺を出てすぐの左手に「観自在王院跡」がある。二代基衡の妻が建立した。2棟の阿弥陀仏堂が池に臨むように建てられていたが、建物はすべて無くなっていた。毛越寺の池を小ぶりにした広さなのだが、渡り鳥が優雅に泳いでいる。鴨と白鳥の。
観自在王院を左手にまわって、さらに中尊寺へおよそ一里(4キロ)ほどを、ひとりで歩行を続けるつもりだった。幸いに同行者がみつかった。
平泉には、JR平泉駅の東側に北上川が流れているが、さらに東側の「東稲山」があり、麓に住宅群が見える。その住宅のご婦人が中尊寺まで歩行を一緒にしてくださることになった。日頃、自動車ばかりで行動しているので「今日は山歩きのつもりで中尊寺にいく」とのこと。その時に詠んだ私の句、
     あら嬉し 人の言の葉 秋の旅

 

2キロほどゆるやかに登山したところに「金鶏山」があった。奥州藤原氏によって山頂に経塚が営まれたところ。義経の妻子が祀られている千手堂がある。「平泉文化センター」で見学をすませた。その会館前に巡回バスが止まったので、ご婦人を置いて失敬してバスに乗り込んだ。同行のご婦人に申し訳ないと思いながら。
 

バス停「中尊寺」、ここから登山客が急激に増えた。観光バスと自動車で乗り付けた大勢の客である。およそ800m登ると、「金色堂」に辿り着く。中尊寺はその200mほど手前に在る。山道は鎖が設備してある。下山するときに鎖を利用すると便利のようだ。大勢の客の中には杖を持った人もいる。「中尊寺」、「金色堂」の写真を入れておく。

藤原氏の本拠地は江刺(えさし)だといわれる。平泉の40キロほど北方、北上川の上流地である。そこの水沢というところに「旧殿」という地名が残されている。ここに大和朝廷の派遣した坂上田村麻呂が東夷東征のあと、胆沢城(いさわじょう)を築いた。城というよりも築地で囲った政庁というべきものであったらしい。「旧殿」から胆沢城の流れに沿って東に下ると北上川に合流する。
岩手北部を流れ下った北上川が創り出した平野部に「平泉」がある。平泉から川は南下して、宮城に入り、やがてやや東行して石巻湾に流れ込む。宮城に入ったところで、広大な仙台平野からの水が加わり、北上川は勢いを増す。桃生郡(ものごうり)飯野というところで本流から分かれた分流が直角に東へ分岐し追波湾(おっぱまわん)に注ぐ。
この川は「新北上川」と呼ばれる。明治5年から昭和9年まで掘削を続けた大工事であった。二つの北上川に切り離された形の女川と牡鹿半島が太平洋に突き出している。追波湾は平成23年3月21日、東日本大震災で大きな被害を受けた。湾から4キロ北上川を遡るところの「石巻大川小学校」児童74名、教師10名が川にかかる大橋を目指して移動中に津波にさらわれて水死した。この事件はわれわれの記憶にあたらしい。
地勢の説明はこれくらいにする。11〜12世紀藤原氏が居住した平泉には「柳之御所」があった。藤原四代の御所には鎌倉源氏に破壊尽くされて地上には何も残っていない。今、「柳之御所」の西に隣接する「無量光院跡」が特別史跡の指定を受け発掘調査が進められている。三代秀衡建立によるこの寺院の境内には、中心に池があり、宇治平等院にならって本堂となる阿弥陀堂があった。惜しむらくは大火で焼失したといわれる。この藤原秀衡の史跡は再建されることであろう。柳之御所から見上げる西の山は中尊寺である。藤原初代清衡の建立になる中尊寺は、度重なる火災によって、多くの堂塔が焼失した。ひとつ金色堂だけが当初のまま残り、堂内には藤原氏四代の遺体が納置されている。金色堂拝観者がいっぱい。隣接の「讃衡蔵」も人が一杯だった。中尊寺本堂は山上のお堂らしく山門からお堂に入る山道が短い。お堂も小ぶりである。
松尾芭蕉は金色堂を詠んだ。
    五月雨の降残してや光堂

謡曲をたしなむ人には堪らぬ能舞台が中尊寺山道途中にあった。森の中の薪能は想像するだけで野趣たっぷりだ。舞台の背景絵は古色蒼然としていて、藤原氏の雅を象徴するような舞台である。伊達正宗が中尊寺再建の一環として、この舞台と白山神社とを建立したと聞いた。能と云えば毛越寺の能舞台で、毎年舞とともに能と謡曲が奉納されている。毛越寺の「延年の舞」が有名である。平泉について語るとき、源義経のことを述べなければならぬ。「柳之御所」から東側に少し離れたところに、ちょうど東北本線と並ぶように「衣川」流れている。川の東側に「高館」というところがある。
ここでは「かただち」と読む。ここに義経が源頼朝の手配を逃れて、藤原清衡に庇護を求めて、辿り着いた。頼朝は弟義経を抹殺する手立てを講じて、高館にいる義経を第四代藤原氏に襲わせて、義経を自刀させてしまう。武蔵坊弁慶は義経を守るために戦う。衣川で全身に矢を受けながら往生した。弁慶の立往生は知られている。こじんまりした墓と「弁慶神社」が中尊寺登山口近くにある。観光の多くの人は気が付かずに中尊寺を目指して登っていく。

松尾芭蕉は高館に立ち、中尊寺を見上げ、五百年前の平泉の情景を瞼に描きながら、詩の世界に入り込んでいた。