7.斉藤道三が築いた稲葉山城はすごい城

新幹線「掛川駅」から名古屋へ、「こだま号」所要時間1時間10分。自由席乗車率20%、豊橋12時14分、矢作川通過12時25分、三河安城12時28分、名古屋駅12時50分。ここで東海道線「岐阜行き」快速13時発に乗り換え10分で飛び乗る。
岐阜駅には18分ほどで着いた。在来線は高架である。隣接の名鉄線も高架であった。二つの駅あたりに「加納宿」があった。駅前はよく整備されている。「加納城跡」も観光地図にある。加納宿の南側で、木曽川、揖斐川を束ねるように、三つの大川が南行している。金華山を抱えた岐阜台地が三角州のように取り残された地形であると理解しておけばよい。新幹線「岐阜鳥羽駅」は三角州の最南端にある。
私はさっそく、岐阜城と稲葉城館跡を見ることにした。駅の荷物預けに鞄を預けて、身軽なスタイルで市バスに乗った。岐阜訪問前にイメージで描いた私の「岐阜城」と信長像は次のようなものであった。

永禄11年(1568)7月25日、熱暑の中を、織田信長が金華山のふもと稲葉城館から、西南一里あまり離れた岐阜西庄の立政寺(りっしょうじ)に騎上で向かっていた。金華山を東部とする城下町岐阜は中山道の宿場町加納や西庄など14世紀頃から街路が整い始めていた。
長良川が岐阜の街の北東から南西へと流れて街を両分している。西庄は長良川東側すぐそばにあった。その西庄に浄土宗西山派の中心の寺院立政寺があった。開基は智通上人(智通光居)。伊勢からの帰途の上人がここで苦行を始めてから人が集まり出して、正平9年(1354)創立になったという。
立政寺の房「正法軒」には信長が派遣した接使村井定勝・島田秀順・不破光冶・和田惟政を従えて岐阜入りをした足利義昭が信長を待っていた。
義昭は福井一乗谷の御所から浅井長政の小谷城に滞泊して、接使とともに稲葉城下に到着したのだった。立政寺正法軒房で信長との会見をすることになっていた。

とまあ、信長と足利義昭との初会見を見てきたように描いていた。


金華山の岐阜城は想像以上に険しい山上に在り、ロープウエイがなければ私の脚力ではとても登山できない。信長が造らせた稜線上の天守閣と武者棟とをつなぐ橋、その橋脚は石垣である。難工事であったろう。馬一頭しか通れない馬場、頂上に近い井戸、急な登山道、馬道もあったはずである。信長の人質たちが居た武者棟は恐ろしくて不安定な感じの建物である。
築城者斉藤道三がこの城を築くについて、城奉行と家臣を酷使したことが想像できる。家臣の心が道三から離れてしまった原因の一つが金華山築城ではなかろうか。攻めるに難しく、守るに困難なとてつもない城である。道三の孫斉藤龍興(たつおき)に家老3人が諫言したとき愚行がおさまらないので、安藤守就が金華山城を占拠した事件があった。また、稲葉良通(よしみち)が信長に通じたために金華山城は永禄10年(1567)に落城してしまった。この城は守るのが難しい。ただし、眺望だけは天下一といってもよい。天守閣から東は関・各務原・美濃加茂方面、北は高富・山形郡の山岳地帯、西は大垣・不破郡・関ヶ原の中仙道と眺望がすばらしい。何よりも、眼下の長良川の風景が心地よい。信長が「天下布武」の意思をさらに固めたことは間違いない。

  

織田信長は手に入れた「稲葉城館」に工夫を凝らして城としての機能を幾つも加えていたようだ。今、この館の発掘調査が行われていて、信長の築城構想の独自性が明らかになっている。館の建物の間に地下トンネルが見つかった。小牧城、稲葉城館、安土城に共通する築城の発想は誰にもまねできない。稲葉城の重臣を抱え、新しく配下に加えた大名の子女を人質として、人材を育てていた。日野城の蒲生秀郷の嫡子氏郷は山上の人質近習であったが、信長はその才能を見抜いていた。会津若松の観光でふれたように、蒲生氏郷は素晴らしい武将になった。また、明智光秀を登用したのも岐阜時代の信長であった。明智光秀と細川幽斎の尽力で、信長、足利義昭の歴史的会見が行われた。

さて、ロープウエイでの観光客はたくさんだった。市バスから金華山のロープウエイまで、私の前になり、後ろになり、移動していた娘さん二人は名古屋からということであった。山上の鶏舎を見たいという。ちょっと首を傾げたくなる。

岐阜観光をそこそこにして、明日は岐阜大垣を観光しようと決めた。関ヶ原合戦のとき、悲劇が起こった「大垣城」である。岐阜駅に戻り、在来線快速で20分。やや薄暗くなって岐阜大垣駅に着いた。駅前のビジネスホテルに泊まった。部屋にJR貨物の操車の音が聞こえてくる。例によって観光下見を兼ねて夕食を食べに薄暗くなった街に出た。大垣城近くの食堂で、カキフライを食べた。カキが美味しい季節になっていた。