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6.奥の細道から東海道へ
まず、駿府城・掛川城
東京駅は駅舎の改築が終わり、今年の秋に二階建てから三階建てに復旧した。スライド投射による東京駅立体スライドショーが休日に催され、大変な賑わいをみせた。残念だが、今回はホームから見る新駅舎の屋根の一部しか撮影できなかった。東京を14時26分発、自由席は4〜5割の乗車率。新富士駅で停車したが、曇り空で、富士山は見えず、停車中に「のぞみ号」に追い越された。ふと思い出したのだが、JR在来線「富士駅」と「新富士駅」との間は4〜5分ほど歩くことになっており、全国から集まった「おのぼりさん」が終結するのに不便であった。両駅間をターミナル化すれば、観光客が喜ぶはずである。富士駅から直線的に富士山に登り出している街の道路風景を風景を思い出した。何といっても、子供の時から、しばしば訪れている私の母の実家がある町である。懐かしい。
静岡駅着15時54分。1時間30分ほどの短い乗車。静岡駅北側の街角で幾人もの人に教えてもらって、駿府城に向かった。20分ほどで、あっけなく夕方の雰囲気の城掘割に着いた。駿府城は大きな公園になっている。城内は見るべきものはほとんどない。明治2年に廃城となり、葵の象徴は徹底的に破壊されたようだ。城庭の跡形もない。「菊は栄え葵は枯れる」である。本丸北側の巨木が目に付いたぐらいであった。城跡あたりから見る真東正面の富士山夕景色が絶景であった。絵画で描かれている富士山の山容と比べると、迫力がまるっきり違う。「存在感」という言葉で生の富士山を表したい。
駿府城のご隠居徳川家康は大好きな囲碁に興じて暮らしていた。本因坊算砂ら囲碁棋士を招き、囲碁に強い次女の対局を鑑賞するなど、囲碁三昧に過ごし、全国囲碁棋士大会を開くなど、囲碁趣味の贅を尽くして暮らしていた。同じころ、関ヶ原合戦に敗れた毛利方
吉川(きっかわ)広家は新しい岩国城で家康を恨みながら、無念の思いで広島城(鯉城)を毎日眺望していたのに。夕闇が迫り出した城内で、私は今夜の宿をどうするか思案した。静岡の従妹に電話相談して、「掛川城」観光の旅程を急遽組み、薄暗くなってきた静岡駅で下り出発17時17分、東海道在来線に飛び乗った。勤め帰りの人で駅は混雑していた。私は半分静岡県人と名乗って、静岡駅からともに乗り込んだ専門学校の男子生徒2人と仲良しとなった。

東海道掛川宿に「掛川駅」がある。静岡から在来線40分ほどで掛川駅に着いた。ほぼ18時だ。7時間ほどで、会津若松から掛川まで一気に下ってきたことになる。いや東北人の感覚では、上ってきたことになる。高速な新幹線のお蔭である。本当に有り難い。駅前は街灯がつき、観光案内所は閉まっていた。掛川売店で相談して、駅南側の「掛川グランドホテル」を選んだが、風格のあるホテルで安心した。夕食は看板に魅せられて天ぷらやを目指したのだが、閉店していた。貧乏籤を引いた気分だった。翌朝のホテル食堂の朝食は満足できるものだった。従業員と食堂の写真を撮った。今日は快晴。掛川駅から北へ15分ほど歩行で城大手門に着く。途中、薬局で風邪薬を飲み、本屋さんで「掛川城物語」を購入した。女主人に旅の安全をと声をかけられて嬉しかった。

「掛川城物語」の歴史を読んだので、以下、掛川の歴史を簡単に説明する。朝比奈氏、平安時代末期以来ここに根付き豪族化、鎌倉時代に静岡岡部に朝比奈城を築き、室町時代、今川氏の臣として掛川を守った。永禄11年(1568)12月、今川氏真は武田信玄に静岡を奪われ、少数の家臣に守られて、朝比奈秦朝(古掛川城)を頼った。武田信玄に呼応して徳川家康が朝比奈勢と戦火を交えた。永禄12年5月、氏真の室北条氏の実家小田城に渡った。北条氏は今川氏真を十分に保護しなかったので、氏真は再び掛川に戻り、家康の庇護下に高家として貴族生活を送ることにした。

永禄12年(1569)、古掛川城に徳川家康の旗本石川家成が入城。天正18年(1590)に家康が関東に移封になるまで、石川家の支配が続いた。同18年、秀吉の指示で山内一豊(近江小浜城)が禄高六万石で掛川に入封、ほぼ現在の規格で新城と城下町を造った。城と掛川宿との間を逆川(さかさがわ)が流れ、東海道が川と並行して、掛川宿を東西に貫いている。関東に去った徳川家康を迎える役目を負う一豊であったが、秀吉が逝去してからは抜け目のない一豊は次第に家康の方にすり寄っていった。
家康の意を呈して一豊は会議をリードし、三成挙兵の情報をいち早く家康にもたらした。家康軍の東海道西下のとき、佐野郡(さやぐん)中山峠に出迎えて、家康を喜ばせた。関ヶ原合戦で直接参戦することはなかったが、南宮山の毛利秀元軍の出動を抑える戦功があった。よって、慶長6年(1601)一豊は土佐二十万石余の破格の沙汰で入封した。家康に接近する一豊の外交政策は成功した。 掛川城の新領主は、家康の母「於大の方」の三男久松定勝、つまり家康の異父弟である。定勝は六男三女以上の子女を持っている。このうち、三女ク阿姫(くまひめ)を慶長10年一豊の養子に嫁がせて、山内家との姻戚関係を確固たるものにした。これで掛川城とともに山内家の残響が徳川家に長く残ることになった。
掛川地方は地震の被害が大きいところ。東海・南海トラフによる激震は慶長9年12月(1604)年、マグニチュード7.9、掛川天守閣が崩壊した。山内一豊が築城した新しい掛川城はほぼ全滅した。この城を元和7年(1621)、久松定勝の三男松平定綱が復元した。宝永4年(1707)、マグニチュード8.4、天守閣破壊さらに、嘉永7年(1854)安政地震マグニチュード8.4をはじめとする一連の大地震で天守台石垣崩壊、天守台も大破。以後、天守閣の復元はならなかった。現在の天守閣は平成5年8月の竣工。大手門は平成7年6月の竣工。安政時代の城を復元したとされる。本丸は復元できなかった。
私は掛川城大手門を入り、天守閣に登った。最上階から掛川四方を見渡した。新しい天守閣は堅牢であった。今後30年のうち、マグニチュード6弱地震が起きる確率90%の危険地帯だから、堅牢でありすぎることはない。消滅した本丸の復元は不要であるが、二の丸(国重文)の保存は大切だ。嘉永7年の安政大地震で崩壊した掛川城の諸建物のうち、「二の丸」は7年の歳月をかけ復元され、文久6年(1681)に完成した。城郭御殿の現存は全国的に数少ないそうで、勤務番が務める書院は、私にとって武家社会のタイムトンネルの世界に入った気分だった。
とても興味が湧いたので、城を歩き回り、右足を傷めてしまった。足がつる。手すりにつかまり、城を降りる姿は我ながら情けない。掛川城御殿の北側に二の丸美術館がある。江戸時代の衣装と美創品それに小間物の展示会が開かれていた。
東海道を扼する掛川の戦略的重要性のため、徳川幕府は掛川藩主に諸大名を当てた。明治元年9月、太田備中守資美が上総国柴山に移るまで掛川は徳川系の藩が続いた。太田藩の後、掛川城は徳川本家のものとなった。
私の掛川観光は午前中で終わった。
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