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4.二本松城の菊人形展
福島駅から在来線の西側は2千〜千7百メートル
の高山が二本松あたりまで連なっている。二本松近くの「鉄山」「安達太良山」は赤茶けた山肌をみせており、近年まで火山活動が続いていたことを示している。車窓から見た山貌があまりに険しいので、地震によるものと思ったが、そうではなく荒々しい休火山の姿であった。この辺りは温泉が多いので有名だ。
在来線「福島駅」8時43分発。9時7分に「二本松駅」着。駅の西方が街の高みになっている。市バスが来ないので歩いた。30分ぐらい歩行すれば「二本松城」(霞ヶ城)に着くということで歩き出す。駅前には二本松少年隊員が太刀を構えている銅像がある。戌辰戦争の「二本松城攻防戦」に加わった年少兵の姿である。城の前にも年少隊ブロンズ像がある。

途中、二本松図書館に立ち寄り、二本松藩史を調べた。それと立花宗茂が棚倉「赤館」を去るにあたって、後任の丹羽長秀に預けた高橋氏のご子孫がどうなっているかも調べた。高橋家子孫は活躍されていた。明和2年(1765)の給入調書によると、長柄頭
高橋武膳、郡奉行評定所当役 高橋利助が奉公していた。戌辰戦争の時、高橋氏がどう活躍したかも調べた。その二本松図書館の隣の建物で、女ながらに新政府軍と戦った「新島八重」の展示会が開かれていた。戌辰戦争で二本松兵と戦った奥羽同盟の女戦士のことである。
二本松は会津の葦名氏が長く支配していたところだった。会津上杉藩の後継は「加藤嘉明」だったが、二代藩主「加藤明成」が改易になった後、「白河藩」の「丹羽光重」が二本松城を預かった。幕末まで丹羽家は二本松の藩主であった。尚武の気風が高い藩風であったが、六代藩主秀延のころ藩政・学制の改革が進み、統制がとれた良藩になっていたという。戌辰戦争となったとき、二本松藩は白河城の城番にあたっていたので、白河城攻防戦に二本松藩士を派遣していたため戦力を失っていた不運もあった。
松平容保(かたもり)が会津戦争を戦ったとき、二本松・会津・米沢・仙台藩など六藩は奥羽同盟を組んだ。十三代二本松城主丹羽斎憲は、養子であり、十二代
丹羽長国は病身であったという。戦闘に堪えない長国は城を退去、国家老「丹羽一学」が城で指揮をとった。二本松城と周囲の城域は戦場になった。
旗奉行高橋九郎は城内箕輪門の守備、少年隊に高橋七郎、高橋辰治がいた。城攻防は丸一日で勝負がついた。丹羽一学は城に火を放ち、他の重臣2人とともに自刀した。政府軍を向こうに回すには堀がないので籠城戦は困難であった。城攻防の戦死者は380人、負傷者は58人という記録である。十万石の小藩の藩士は奮闘したとたたえられてよい。
私はタイムスリップして、菊人形 二本松城主 丹羽光重の馬の轡取りとなって写真に収まった。福島市の人たちが勧めてくれた大がかりな二本松菊人形展は規模が、お城に似合いの展示会だ。観光バスの客が城に押し寄せてきていた。団体客に尋ねたら「沖縄から来た」という。バスガイドは張り切って案内していた。
東日本大震災で、復旧間もない二本松城天守閣の石垣は壊れたとか。城の高いところには入れてもらえなかった。この辺りは地震の震度が大きかった。ここは火山地帯だし福島だもの。
こうなったら、会津若松に突っ走らねばならない。東北本線、二本松駅12時54分発、郡山駅13時20分着。鉄道沿線周辺は山だらけであった。郡山駅ですぐ磐越西線「会津行き」快速に乗った。考えてみたら昼は「ゆべし」一個を頬張っただけである。


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