8.自然が残っていた水の街「岐阜大垣」

大垣は水の街といわれる。西美濃盆地に位置する。大垣市は東端に揖斐川、西端に抗瀬川があり、大垣城の東と西に水量豊かな清流がある。この川は大垣城の堀の役目をしている。この水流から、川船で揖斐川、木曽川に出ていく水運がある。街中には自噴する井戸がいくつもあり、名水の誉れ高い井戸がある。船宿には川船がもやってあり、大きな水鳥が佇んでいた。旅行者には、たまらない風景だ。

陸路は街の北側に中仙道が東西につながっているし、南側に美濃街道が街を横切っている。中仙道を西に行けば、垂水経由で、関ヶ原に通ずる。美濃街道は西南の養老山脈に遮切られ、中仙道側に押し上げられるようにして合体している。関ヶ原合戦で石田三成の西軍は大垣城に終結したのに、野戦が得意な徳川家康にあっさりかわされ「赤坂」に出られたので、慌てて関ヶ原戦場に先回りした。残された西軍の兵士は一枚岩でなく、東軍に崩され、ついに本丸だけとなった.三成の祐筆を父に持つ幼女「おたあ」は、夜半、本丸西側の塀から堀に降りて戦場から逃れ出た。今、本丸西側の堀は埋められて、綱を結んだ松の木を塀の外から見ることができる。
 

もっとも松の木は二代目だそうである。公園を散歩していた中年男性が教えてくれた。埋められた掘址に戸田氏銕の馬上像があった。関ヶ原の戦いの後、大垣城主となった大名である。島原の乱のときの、幕府軍の軍艦として活躍した。

城の西側の水運は「水門川」と呼ばれ、今は珍しくなった水藻が懐かしくも、ゆらゆら揺らぎながら、水がとうとうと南に向かって流れていた。鴨が魚を狙って忙しく動いていた。そして、アオサギが私の目の前で、じっと体を固めて魚が泳ぐのを見ていた。その緊迫感が私に伝わり、いつしか私は息を凝らしていた。
今日は松尾芭蕉の全国句会があるとかで、公園散歩のご婦人が「何処からおいでですか」と声をかけられた。水門川近くの馬場町の「奥の細道むすびの記念館」の前庭で式典の準備ができていた。そういえば、この旅のはじめに、「一関」「平泉」で芭蕉の足跡にふれた。歴史旅を終ろうとする今、また芭蕉の足跡に出会おうとは妙な縁だ。
芭蕉には大垣に「木因」という弟子がいた。木因の招きで貞亨元年(1684)「野ざらし紀行」に出て、東海道を西に伊賀・大和・吉野・山城・美濃・尾張をまわり、再び伊賀に入り、越年して木曽・伊賀を経て、4月に江戸に戻った。
大垣滞在は貞亨4年(1687)「更科紀行」のとき、そして元禄2年(1689)8月「奥の細道」の旅の終わりに大垣に着いた。翌3年は膳所、志賀郡国分、翌4年嵯峨野の落柿舎、京都などをまわり、9月に京を発ち、江戸へ向かった。芭蕉の生家は伊賀上野である。伊賀上野、伊勢や大垣、そして京には幾度も足を運んでいる芭蕉である。
 

芭蕉は元禄7年、大阪で身まかった。淀川を船で運ばれて遺骸は敬愛する近江膳所の義仲寺(ぎちゅうじ)の義仲の墓所の横に埋められた。芭蕉がどうして義仲を好きになったのか。平家追い落としの第一の功労者であり、征夷大将軍となりながら源頼朝軍に追われ、大津粟田で討ち取られた勇猛な武将義仲。数々のエピソードを持ち、人柄が偲ばれる木曽の若大将。その将軍を慕って最後まで付き添った巴御前。その後の、巴御前が「無名庵」を造り、義仲の墓を守った話。芭蕉はこの「無名庵」に幾度か泊まり、句を詠んだ。
  義仲の 目覚めの山か 月悲し

琵琶湖の水がとうとうと淀川に流れ出す瀬田川。その川にかかる瀬田の大橋、そばの「無名庵」。
旅に病んで夢は枯れ野を駆けめぐる松尾芭蕉は瀬田川の素晴らしい景勝地に静かに横たわっている。

早朝7時から大垣観光を無事終えた。私は午前中に駅前の古舗で柿羊羹の竹筒を一本買って大垣駅を出た。いや、駅構内の軽食店でパンを頬張って、東海道線に乗り込んだ。新幹線駅がある米原駅へ着くまで、私は車窓越しに関ヶ原合戦につながる風景を見張った。垂水から西へ中仙道は山道がつづいた。関ヶ原合戦に向かってやや傾斜しながら枯れ野が続く。今もさびしい風景である。歴史の旅に関ヶ原戦場の取材を考えていたが、私の興味は消えてしまった。もうこの次は安土城跡の見学にしようと考えた。
米原駅には正午前に着いた。新幹線に乗り換えるのに都合がよかったので、安土城見学の計画は取りやめた。明日は、私の太極拳の演奏発表会がある。舞台を休んでしまっては、会友に迷惑をかけたくない。ひとり旅を急遽切り上げることにした。
新幹線車両に乗り込んでからあとは記憶が淡くなって、頭の中に残っている旅の思い出が遠くなっていった。きっと、空腹と疲れで気が散ってしまったのだろう。