3.仙台を離れて福島に新幹線で移動

年輪ピック大会の参加者であるれる仙台市を離れたかった。巡回バスを降りた私は仙台駅午後2時45分発の列車で福島に向かった。松島海岸と仙台市街部がほんのしばらく見えた。だが、名取川が見えた途端に田園風景に変わった。
名取地方は東日本大震災の津波を被ったところで、市街区の3分の2が浸水、多数の死者が出たことは記憶に新しい。車窓からはその被害の様を見ることはできなかった。列車は山岳地帯を走った。しばらく山が連続し始め、白石蔵王駅を過ぎて白石盆地が見えた。やがて、蔵王の山が車窓の西側に迫ってきたかと思うと、福島だった。
福島駅は在来線が東側、新幹線が西側に高架となっており、町が二分されている。市民はガード下と地下道で東西を行き来している。東側の街が圧倒的に賑やかである。JR職員は「校内の東西出口を通る通行券を出してあげますよ」と云ってくれた。街を分断して市民に不便をかけているのを気にしているようだった。駅の観光案内は、閑静な西側のホテルを選んでくれた。観光案内所によっては、宿の世話はできないとパンフレットをくれるだけのところもあるが、福島駅の観光ガイド事務所は親切にも、こちらの要望に添ったホテルを選んでくれた。


地震と津波、放射能汚染で福島の人は、何処にもまして被害に苦しんだ。災害直後からたくさんの人が福島を訪れ、市民を支援していった。福島の自治体や観光事業者は受け入れを実情に合わせて、支援者のお世話をしているようにも思える。もともと忍耐強く連帯の気持ちが強い東北の人は、こんなに苦しいときにも自然と周りの人に優しくなっていったといわれる。苦しい体験を持った人こそ、人に優しくなっていく。
例によって、宿に荷物を置いて、私は駅東側の人が一杯集まっていたところを、手にカメラを持って歩き回った。作曲家古関裕二の銅像がピアノを弾く姿になっているのが面白かった。もし彼が生きていたら、災害に打ちのめされた福島のため素晴らしい曲を作ってくれたであろう。災害後、今年までたくさんの音楽家が支援の歌を作ってくれた。多くの歌手も被災地に出かけてくれた。私は男性歌手の声援歌を覚えたいのだが、未だに歌えないでいる。矢沢栄吉の人を元気づけるロック調は無理だし、杉良太郎のように、渋さの中にも人を包み込む優しさの歌も唄えない。弦哲也のメロディに乗って「バラ色のダンス」を口ずさむことができるならいいのだが。
詩人や作曲家はよく旅をする。音楽家もよく旅をする。風景を見、海山の産物を食し、土地の人に会って話をし、土地の音楽を聴き、自分の歌や曲を土地の人に聴いてもらう。津軽三味線の二代目高橋竹山は東日本大震災の後、東北の被災地を訪ね仮設住宅や小さな公民館で演奏活動を繰り返した。現代詩の詩人佐々木幹朗(みきろう)は高橋竹山に同行して詩を朗読して、集まった人に言葉で語りかける。歌を紡いで皆に聞いてもらう。想像を超えた惨事に出会った人の血を吐くような言葉を聞いては、彼はもう身震いする。「昨日まで使った言葉はもう使えない」。佐々木幹朗は「瓦礫の下から唄が聞こえる」を本にして発表している。旅をして書いた詩と旅行記はきっと人に訴えるものがあるだろう。この挿話は毎日新聞の書評に拠った。
作曲家冨田勲氏の音楽史に残るであろう「イーハトーヴ交響曲」の発表について紹介したい。東北大震災の死亡者2万人の追悼の為に冨田氏は、大震災の年11月、東京オペラシティで9つの楽章からなる組曲を発表した。彼方の理想郷・イーハトーヴを夢見て歌い上げた日本の叙情詩である。岩手山のうた、東北に残る剣舞、宮沢賢治の世界、風の又三郎の歌と舞などが東京交響楽団で初演奏された。会場のスクリーン上に、パソコン映像人形「初音ミク」がオーケストラ生演奏に合わせて踊り唄った。会場のキーボード演奏に合わせて、人形が踊り唄うという、ヴァーチャルの世界が生演奏に加わった画期的演奏会であった。この初演奏会のCD盤が、平成24年1月、レコード会社から発売されている。このCD盤はきっと歴史に残る名盤となるであろう。
私は薄暗くなった街で夕食をとるためにホテル近くの柳川鍋・蕎麦の店に入った。店の雰囲気が気に入ったので写真を撮らせてもらった。「仙台疲れ」で風呂に入りすぐにベッドに横たわることにした。旅の記録をすませて、すぐさま布団を被った。
翌朝、気分よく目覚めて、ホテルの朝食を美味しく食べた。疲れているときは塩気が多い和食のほうがよい。ゆったりした雰囲気のホテルに泊まれてよかった。今日は「二本松城」の見学だ。