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5.会津若松の歴史は変遷の歴史

東北観光の一つに会津若松を加えたので、私の手持ちの資料で会津若松をクローズアップしてみた。
会津若松は交通の要所である。地図によって道路を確認いただければ有り難い。若松大町に「札の辻」がある。ここで5つの街道が交叉する。北方向に米沢城下と結ぶ米沢街道。そして、東へは二本松街道、磐梯山と猪苗代湖との間(熱海中山)を通り抜けて、仙道(仙台〜白河)と繋がる。二本松、福島、郡山に行く大切な道であった。西へは越後新発田と結ぶ越後街道。古代から日本海側文化と経済を会津地方にもたらした重要な道であった。
南へは南会津を通り、下野国今市に達する「下野街道」(しもつけがいどう)。この街道は別に「南山通り」「会津西街道」と呼ばれている。この道は会津と江戸とを結ぶ物資輸送の大切な道であった。後に日光大地震(1683)でできた「五十里湖」により、下野街道が不通になったので、下野街道に並行するように南下する「松川街道」が造られた。「会津中街道」とも呼ばれたが、のちに五十里湖(いかりこ)が焼失したので、この道は次第に使われなくなった。五十里とは江戸から五十里の意味。鬼怒川と云う暴れ川の支流の土砂でできた自然湖なので「いかりこ」と呼ぶのであろう。
那須連山の西麓を下る鬼怒川は昔の人たちには、手に余る川だったらしい。街道としてはこれに、会津から東南方向、「東山」を少しばかり登り、猪苗代湖南側を抜けて白河に繋がる「白河街道」がある。秀吉が会津に遠征してきたときに、この道を整備させたという。蒲生氏郷が京と会津を往来するときにも使った。これらの街道を纏めて「会津五街道」という。
これに加えて、越後街道をやや西へ行ったところ「会津坂下町」を起点として、柳津(やないづ)を通り、只見から西南行して、尾瀬を経由して信州沼田に着く「沼田街道」がある。これらが会津盆地と他領とつながる会津街道である。会津街道筋にはとにかく歴史が残してくれた遺跡と風物がいっぱいある。

会津黒川の話に入る。文治25年(1189)、征夷大将軍源頼朝は奥州の覇者藤原氏を討ち滅ぼした。3年後鎌倉幕府を開いて頼朝は、新しい支配地に、鎌倉御家人を配置した。会津盆地に佐原義連、大沼郡・伊奈郡に山内通基、会津郡南山に長沼宗政、そして伊奈郡に河原田盛光が派遣された。佐原義連は相模国三浦郡蘆名郷を所領する三浦義明の七男。頼朝の東国東征に従ったので、この時の戦功を賞されたもの。義連は会津・河沼・耶麻(米沢)を預かった。
三浦一族のうち、蘆名氏を名乗る嫡流が会津盆地で力をつけて、相模の三浦家と相携えて、400年余の支配を続けた。十六代葦名盛氏の時が最盛期で50〜60万石の支配であった。以下、後世に使用された「葦名」氏の文字を使う。盛氏は伊達稙宗の娘を娶り、大沼の山内氏を討ち、会津盆地に威を張った。福島中通(仙道)の安積郡(二階堂氏)それに越後の小河荘を制圧した永禄4年〜11年に会津本郷に「向羽黒山城」を創築し、葦名氏の居城とした。

葦名氏十七代盛興は天正2年(1574)、27歳で父盛氏よりも先に没した。盛興に子がなかったので、二階堂盛義の子盛隆(質子)が継いだ。盛隆は会津と岩瀬郡とを領有する大名となった。このころ奥州で大名を名乗ることができたのは葦名氏ともう一藩であった。だが若い盛隆氏は天正12年(1584)、小姓に切り殺される奇禍にあった。
次の葦名二十代は佐竹義重の次男義広と伊達政宗の弟竺丸(じくまる)との後継者争いとなった。佐竹義広が引き継ぐことになったが、葦名家中が平穏に纏まることが難しく、天正17年(1589)年「摺上ヶ原の戦い」が起こり、伊達政宗に内通した猪苗代盛国の所為で、葦名軍は大敗、義広は兄佐竹義宣(よしのぶ)を頼って常陸太田城に墜ちていった。背走する葦名軍を追って、伊達政宗は会津黒川になだれ込んだ。そのまま伊達領として居座ってしまった。勢いのままに、天正17年12月、政宗は佐竹と組んで二階堂盛義の室阿南姫が護る岩瀬郡須賀川城を奪い取った。阿南姫(おなみひめ)は政宗の父輝政の妹である。この伯母は政宗が大嫌いで、捉えられても強欲な甥に屈しなかった。佐竹義宣が頑固な老阿南姫を引き取った。
天正17年といえば、秀吉が九州遠征を終え、「天下総無事令」を出して、東国の諸大名にも服従を求めていた時である。関東の北条氏が秀吉の裁定に従わないので、全国の大名に「小田原攻め」を指令していた。葦名領を攻め取った伊達政宗は時期を間違えた。秀吉は天正18年3月、諸大名の軍勢を集めて、北条氏が支配する関東の諸城に攻めかかっていた。小田原城攻め最中の秀吉に降伏を申し出た。同年8月、秀吉は東北に遠征した。会津黒川に入った秀吉は、小田原城攻撃に参加し東北に従軍した大名の中から、伊勢国松坂藩主蒲生氏郷を会津領主にすることにした。四十二万石の所領を与えて、さらに伊達政宗を米沢に追い返した。後、会津領は検地と加増により九十二万石と認められた。
蒲生氏のことを述べる。近江日野城の蒲生秀郷の嫡男。織田信長が足利義明を奉じて京都に向かったとき、六角承禎(観音寺城)がこれを遮った。信長軍の勢いに驚いて承禎が城を捨てて逃げだしたので、家中を纏めて織田軍を受け入れたのが佐々木家の重臣蒲生秀郷だった。
秀郷は人質として嫡子氏郷を信長に預けた。岐阜城に置かれた若者の中で、文武に秀でているのが信長の目にとまり、次女冬姫を貰った逸材である。「九州遠征」、「小牧長久手の戦い」など幾つもの遠征に従い、勇猛果敢な武人であることを認められた。また、書、歌、茶道に優れた才能をみせたという。千利休の高弟のひとりであり、クリスチャンである。天正10年の「本能寺の変」のとき、父秀郷とともに、安土城の信長の妻子一族を日野城に引き取り、明智光秀に対抗した。光秀を倒した秀吉から氏郷は伊勢「松ヶ枝城」を与えられた。氏郷は天正16年、この城を壊して「松坂城」を築き、やや強引に城下町を作り、商業活動の要所を造り上げた。
会津黒川に入封した氏郷は秀吉が指示した奥州措置を実行、伊達政宗から「会津黒川を受け取り、故郷近江の若松にちなんで「会津若松」と改名した。黒川城の大幅改修に着手。堀を浚えて二の丸、三の丸、北出丸を新設、七層の天守閣を造った。「鶴ヶ城」の完成である。天正19年に豊臣秀次とともに大崎・葛西一揆と「九戸の乱」を制圧した。一揆を制圧した氏郷は伊達政宗が陰で一揆を煽動していたことを訴えた。伊達政宗は米沢を出て、大崎・葛西氏の拠点、玉造郡岩手沢城(後に岩出山城)を預かる羽目になった。氏郷は惜しむらくは治政5年で文禄4年2月、惜しまれながら伏見蒲生屋敷で40歳の生涯を終えた。嫡子秀行に会津に預けることを秀吉は嫌ったが、秀次の意向で家督継承は認められた。
だが、老化が進んで残りの時間が無くなった秀吉は慶長3年(1598)春、上杉景勝に会津を渡した。直江兼続も「米沢城」を預かることになった。景勝・兼続合わせて百二十万石。会津への移転後、上杉景勝は五大老のひとりとなった。そこで、景勝は会津若松城の代わりとする「神指城」(こうさしじょう)の築城を急いだ。けれども秀吉が慶長5年8月に逝去してからの上杉氏の会津支配は難しかった。景勝は徳川軍の侵攻を止める「白河城」の補強に切り替えた。「関ヶ原の戦い」のとき、徳川家康の会津征伐に対抗する形で、最上義光の居城「山形城」奪取作戦を展開した。やがて、関ヶ原の西軍敗勢が伝わると、転じて景勝は会津の守勢を固めた。戦後1年11ヶ月、慶長7年8月、ようやく伏見の徳川邸で、景勝・兼続が拝謁をすますと、上杉氏の米沢三十万石が決まった。百二十万石から三十万石の減封である。
宇都宮十八万石、蒲生秀行が東軍の戦功を受けて、会津の領主として返り咲いた。ただし、四十万石であった。時は流れ、氏郷の子秀行は慶長16年8月、不幸にも会津大地震に遭遇。若松城全壊、倒壊家屋2万戸、死者3700人余、川床持ち上がり、山崩れで「山崎湖」が出現、越後街道の浸没があり、会津盆地は大被害であった。翌年、秀行は失意のうちに30歳で病没。嫡子忠郷は10歳で家督を継いだが、これも26歳で若死にし、蒲生家は断絶した。
そのあと、寛永4年(1627)、伊予二十万石の「加藤嘉明」が会津に転封してきた。織田信長と秀吉の水軍として働いた武将である。この嘉明の継嗣「加藤明成」は慶長16年(1611)会津大地震からの被害修復と治政に失敗。家臣にも叛かれて、徳川幕府に会津を取り上げられた。愚昧な二代目殿は治政と災害復旧が難しかった。次の藩主は秀忠将軍の異母弟保科正之が替わって三十二万石で入封した。ご存知のごとく、保科家は幕末まで続いた。なお、加藤明成が非道な城主であったことは山田風太郎の「柳生忍法帖」に詳しく描かれている。
さて、私の旅のこと、前日、郡山から磐越西線に乗り、1時間20分ほどで会津若松駅に着いた。会津磐梯山南麓を通り、会津若松の北側から南方向に回り込んで会津若松駅に列車は停まった。午後4時を過ぎていた。市内観光バス最終便が出た後で、観光下見が出来ず、駅近所のビジネスホテルに泊まった。ほんとうは会津若松市の南東、「東山温泉」宿に泊まりたかったのだが、予約がとれずに、旅館を探すのは諦めた。東北の秋空は陽の陰りが早い。おまけに小雨まで降ってきたので、街の景色は急に侘しくなってきた。夕食は駅近くの魚料理店で刺身と日本酒を取った。肴盛り鉢は豪快でいかにも北国料理らしかった。日本海の海老と貝とが美味しかった。料理から日本海が近いのを知る。越後の酒は結構いけた。

翌朝8時の巡回バス西回りで歴史探訪を試みた。まず、蒲生氏郷の墓がある「興徳寺」を探した。京都大徳寺から送られてきた遺髪が墓におさめられていた。保科家からの献碑が目に付いた。朝のお寺には人影はなかった。近くに古い商店街がある。テレビの名店紹介で見たことのある風景であった。会津塗を扱う古びた店などがあった。目の前にある「青春の町」が野口英世の若き日の伝聞をみせるように横たわっていた。

会津若松城は西南の三の丸側から入った。掘割と樹木の色が美しい。本丸は五階建て、戌辰戦争で傷んだ本丸が見事に再建されている。観光客がいっぱいだった。バスは城から黒川の城下町を通り、武家屋敷地と葦名家廟所、松平家墓地、会津藩士のお墓やお寺がたくさんある「小田山」の東側を走り登る。小田山から「鶴ヶ城」を望遠できる。討幕軍はここから若松城を砲撃した。東山町の温泉街は鄙びた峡谷にあるが意外と街に近いところにある。「湯川」がここからお城の堀に向かって流れている。上杉景勝が湯川を離れて、市の北西側そばに「神指山城」を造築しようとした意図がわかる気がする。鶴ヶ城は少しばかり東山により過ぎている。それならば、市南西側に築城されていた蘆名盛氏の居城「向羽黒山城」を利用した伊達政宗の方が戦略的好点を見抜いていたと私は考える。
戌辰戦争のとき、「河井継之介」が越後長岡で会津に向かう新政府軍と戦い、鉄砲傷を負い、「八十里峠」越えして会津只見に辿り着き終焉を迎えている。
司馬遼太郎の「峠」がかなり詳しく描いているのでもう一度、この本を読み返したいと思う。
会津に来た長岡藩士は会津兵とともに戦った。長岡藩士殉節の碑が「会津本郷駅」の傍にある。バスのコースから外れているので、見学できなかった。また、只見町も会津市街地から離れているので、只見の「河井継之介記念館」も見ることができなかった。観光地図を見ると、歴史を語る地点がたくさんあるので、とても回りきれない。戌辰戦争のあとに活躍した会津人の活躍を顕彰する碑や墓も数多くある。「国破れて山河あり」である。後日、会津戦争の映画を観ることにする。
西回り巡回バスは市東側の「飯盛山」連山の裾を北行して、白虎隊の顕彰モニュメントを横目に見たところで西に折れて若松駅に向かった。午前11時11分、磐越西線に飛び乗り、1時間ちょうどで郡山に着いた。
車中の昼弁当は、駅近くの八百屋の爺さんに4つ割りしてもらった皮付き芯ありリンゴであった。旅の疲れを吹っ飛ばすつもりで2個も食べた。考えてみたら、磐越西線の復路は稲刈りが終わり、鳥が田んぼに降り立っている風景だけが目に残っている。会津磐梯山は線路が近すぎて、撮影が難しかった。会津観光はとにかく駆け足旅行だった。
郡山駅の東北新幹線のぼり「やまびこ号」に乗り込むのに正味25分切れていた。切符購入と小用を済ませてホームで5分しか時間が残っていなかった。その代り車輌自由席にゆったりと座った。乗車率は20%ぐらい。郡山観光は何もなかった。グリーン券売り場職員の親切な説明で短い時間で乗り継ぎが出来た。疲れていたので、車中でいつの間にか眠っていた。気が付いたら雨模様の上野だった。西日本が台風で大荒れの様子だった。
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