1.高野山「お礼参り団」に加わる
平成24年11月〜12月は例年と比べて寒さが厳しかった。平成25年の2月頃から寒気が緩み始めたので、「今年の春の花はきれいだろう」と花を愛でる人たちは考えていた。四国巡礼の旅を重ねていた家内が、かねてから高野山霊場の遍照金剛大師へのお礼参りを計画していた。
3月中旬の3泊4日旅、高野山お礼参りの旅巡礼団が編成されたので、家内は私を誘って、一行に加わった。ちょうど梅の花の満開時であった。3月11日は東北大震災の日で、その時刻に街でサイレンが鳴った。市民みんなが黙祷をささげた。わたしは、「生かされている」という感謝の気持ちを巡礼団の中で御仏に捧げた。結願のお礼参り巡礼団に加えていただいたことを有難く思った。
福岡の巡礼団は36人、新門司港から阪急フェリーの1万トン大型船に乗り込んだ。家内が巡礼のとき数回も同道していた山口市の友人吉田さんと偶然にも乗船のとき乗り合わせていた。2人は僥倖を喜び、肩を抱き合って喜んでいた。高野山の宿坊「大圓院」でもふたりは同室を宛がわれ、旅の楽しさを味わっていた。その友人は一人旅、こちらは二人旅。家内の友人は経験が少ない私を気遣ってくれて、私達から離れる気遣いをしてくれた。私が一人ぼっちになる場面はあまりなかった。
この巡礼団は熊本の巡礼団と船、高野山宿坊を同じくし、京都、奈良、飛鳥、金剛山・紀州・および高野山の巡礼をともにした。熊本グループはバスごとフェリー船に乗り込んでいた。泉大津港に着岸してからは、陸路はそれぞれ先達ガイドを着け、相携えて巡礼した。兵庫から来た巡礼ガイドと私たちのバスガイド、それに私設ガイド(同伴者)がついているので気楽な旅になった。私は過保護な巡礼者であった。一行の中で、私はデジカメを抱えて自由に振舞っていたので、私設ガイドは気を緩めるときがなくて心労であったろう。
巡礼の第一歩は泉大津港から。戦後の昭和時代から、大津港は京阪工業地帯の海運拠点として、発展を遂げてきた。朝ぼらけのこの港に、巡礼ガイド(先達さん)を乗せたバスが迎えに来ていた。下船はちょうど午前6時だった。バスは泉大津から工業地帯を走り、堺市を過ぎて、大阪市中心の堂島を一気に通り抜けた。京都伏見に向けて、淀川の北岸をひた走り、洛南九条通りの「東寺」に着いた。
大師遍照金剛を偲び、私は「生かされている」と感じるので謝恩の気持ちを持って旅を通した。空海の足跡をたどる寺院に詣りするとき、あまりにも大師のことを知らないので、寺社の風景に気をとられて、その歴史の意味が分からないことが多かった。「これではならじ」と、空海の足跡を勉強することにした。
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