2.空海 求道入唐

中国密教を学ぶために空海は延暦23年(804)8月に入唐してのち、長安の青龍寺恵果和尚に師事した。延暦24年5月(805)のことであった。中国密教第七代祖の恵果和尚は空海の非凡な才能を認めて、密教を日本に普及する役割を空海に託することにして、空海に中国密教のすべてを与えた。空海はよくこれに応えて、短期間の勉学で、大悲胎蔵の学法灌頂と金剛界の灌頂とで、大日如来との結縁を得た。さらに、阿闍梨位の灌頂を受けて、「遍照金剛」の灌頂名を授かった。「この世の一切を遍く照らす最上の者」の意味だそうである。

恵果和尚が入寂したので、空海は全弟子を代表して法要を済ませ碑文を捧げた。延暦25年(806)3月、長安を後にして越州へ。4か月滞在して土木技術・薬学の多分野を勉強、遣唐使判官高階達成の帰国船に便乗、同年8月、明州を出発して帰国の途へ。途中暴風雨に遭い、五島列島福江島玉浦(たまのうら)大宝に寄港。そして、真言密教の経典・密教法具を携えて大宰府に大同元年(806)10月到着。ここに入京許可が下りるまで長期間滞在した。20年留学予定の官費留学僧が早々と帰国したことに、学業放棄の疑いがかけられたので、入京の許しはなかなか下りなかった。このとき桓武天皇は崩御していた。

少し時代を遡り光仁天皇の時の話をする。光仁天皇の後継者になることを目論んで、山部親王(桓武天皇)は藤原氏南家の後ろ盾が無くなった従兄弟他戸(おさべ)親王とその母井上内親王とを巧妙に謀殺した。聖武天皇の孫他戸親王は天皇の有力候補者である。謀略は宝亀3年(772)のことだった。競合する天皇候補者を消した山部親王は翌宝亀4年に皇太子になり、天応元年(781)に希望のとおり天皇となった。父光仁天皇は同時に同母弟早良親王を南都東大寺から還俗させて皇太子とした。

桓武天皇は藤原百川・藤原良継(式家)と組んで、大伴一族を圧迫して、皇族としての地位を築きあげていった。天皇になってから、大和朝廷の武威を振い、東征を進めて、朝廷の支配地を増やしていった。南都での祀りごとの掣肘をきらって、専制君主を続ける天皇は奈良の北方山城への遷都を強引に計画した。いわゆる長岡京遷都である。

遷都は延暦3年(784)強引におこなわれた。翌年、長岡京使臣藤原種継が造営指揮を執る中で襲われ殺されたので、怒った桓武天皇は遷都反対派大伴一族ら多くを殺戮、無実を訴える弟早良(さわら)皇太子を冤罪で殺した。早良皇太子を乙訓寺に閉じ込めて、絶食で抗議する皇太子を一度も調べることもせずに、淡路に流すと偽って、道中河内で強殺してしまった。南都の東大寺から還俗までさせた弟を殺す桓武天皇の残虐行為はどう釈明しても、罪は免れないものであった。新しい皇太子は桓武天皇の第一皇子安殿(あて)親王になった。後の平城(へいぜい)天皇である。

それから天皇と皇太子の周りで起こる災害とピンポイント的な肉親突然死の連続に桓武天皇はおびえきって暮らしていた。延暦25年(806)平安京で専制王桓武天皇は死去。