3.平城天皇狂う
桓武天皇の嫡男平城(へいぜい)皇子は天皇に即位、そして弟嵯峨皇子は皇太子に。この平城天皇も父桓武天皇を真似て、即位の翌年に異母弟伊予親王を殺していた。平城天皇も、錯乱が続いて、即位から3年で退位せざるを得なかった。藤原氏式家の天皇撹乱もあって性格的に脆弱な天皇は精神病を病んで、自ら退位したのである。平城天皇は異母弟伊予親王の祟りを恐れていたといわれる。
大同4年(809)4月、平城天皇は発病で退位し上皇になった。同時に嵯峨天皇即位。新しく平城上皇の三男高岳(たかおか)親王が皇太子になった。このあたりまでは政権の移動は順調に推移したかにみえた。
だが、健康を回復した平城上皇は大同4年12月、突然平城京に移動して、翌年9月に詔を発し、「都を平城京に戻す」と宣言した。嵯峨天皇はこれに一旦は従ったふうを装い、坂上田村麻呂、藤原冬嗣、紀田上を平城宮造宮使として、奈良におくりこむ。嵯峨天皇は征夷大将軍坂上田村麻呂、文室綿麻呂ら近衛府武人を掌握していたので、上皇の宣言で動揺した貴族、役人を抑えることができた。大同5年10月、嵯峨天皇は左大臣藤原仲成(武家、薬子の兄)を捉えて降格、平城上皇の内侍藤原薬子(くすこ)、実は上皇の愛人が尚侍として再び権勢をふるっていたので、嵯峨天皇は薬子を平安京に追放とした。
けれども、騒動はこれで収まらなかった。平城上皇は藤原薬子を同伴、奈良を脱出して、東国で兵を挙げる行動に出た。嵯峨天皇は迅速に動き、上皇の脱出を封鎖したので、上皇はやむなく引き返し、出家隠棲することにした。愛人薬子は薬物を飲んで自殺した。捉えられた藤原仲成は射殺された。これで、天朝は少しばかり静謐になった。そもそも藤原薬子の素性はなにか。藤原種継の女(むすめ)、中納言藤原縄主夫人として三男二女を産んでいる。長女を安殿親王の宮女として東宮に差し出してから、安殿(あて)皇太子とよい仲になっていた。藤原葛麻呂と通じてもいたので、あまりの醜態に、桓武天皇から東宮を追放されていた横着な女である。安殿(あて)皇太子が天皇になった時、ふたたび宮廷に戻り、夫藤原縄主を九州大宰府大弐として、京都から遠ざけるという醜行をしている。
親政宜しからぬ桓武天皇の不人気ぶりはひどいもので、死後葬る桓武陵が天皇の意思通りとならず、世情不安が一段と高まっていた。大騒動の末に葬られた京都伏見の御陵は秀吉の伏見築城で壊されて、現在に至るまで場所が特定できていない。暴虐的天皇の末路は哀れである。困り果てた明治政府は平安遷都千年を記念して建立した平安神宮に天皇を祀った。平安神宮に桓武天皇がいますと認める人は少ない。
飛鳥王朝で暴力的朝廷革命を演じた天智天皇の末裔たちは総じて性格がよろしくなかった。天智天皇のご落胤藤原不比等の一族も権勢をおごり、天皇家の継承に混乱をもたらしていた。ところが、平城上皇の弟嵯峨天皇は天智天皇系の人物であり、果敢なところもあるが、父と兄とを反面教師として、敗者を鞭打つことはしなかった。皇族の統制は次第に行き届いたものになっていた。祭政にほころびを見せないところが、嵯峨天皇の力量であった。
|