4.嵯峨天皇と空海
嵯峨天皇が政治に奔走している時、空海は和泉国岸和田町槙尾山の「施福寺」に滞在していた。山の中のこの寺は若い空海が平安京の大学を退校し山岳修行に入った修験場であった。空海は明教道を専攻していたが道教の勉強にあきたらずに、この山寺で剃髪して仏教界を求道していた。官僚や学者になることを辞めて、仏教の世界に入ろうと空海は若者らしく私度僧として修行に入っていた。延暦12年(793)、20歳の空海が勤操(ごんぞう)を導師として剃髪した御堂が現存している。
中国留学を終えて、帰国した空海は大宰府にしばらく滞留、そして大同4年(809)に和泉国槙尾山「施福寺」の勤操のもとに身を寄せていた。若い空海は同寺に滞在している間も、密教普及活動に余念がなかった。
槙尾山から歩道で15キロほど北東に河内長野市と三日月町がある。三日月町からさらに東へ直線で10キロほどのところに葛城山(553b)がある。その山麓に千早赤坂村があった。葛城山の南には峰伝いに金剛山(1125b)が聳えている。生駒山脈でもっとも険しい山をイメージしてもらってもいい。千早赤坂村に至るには、三日月町から東へ5キロほど歩くのであろうか。そこに檜尾山(ひのきおさん)観心寺がある。観心寺は古くは「雲心寺」とよばれ、8世紀の初めごろ、山岳修験道の祖「役小角」(えんのおづぬ)が金剛山を中心に周囲の山に修験道場を開いていた。雲心寺もそのひとつとされている。雲心寺は南面に神ヶ丘(山元)と呼ばれる高い尾根があり、観心寺は修験場にふさわしい渓谷のなかにある。金堂は国宝に指定されている。
大同4年(809)、空海はこの雲心寺に入り、密教の秘事星供(ほしく)を行った。星供とは北斗七星を祭る行事である。儀式では、7本の幟を立て、その前に棗(なつめ)と茶を供え、願うひとつの息災、利益、延命を祈る儀式である。人間は誕生の瞬間に、本命星と北斗七星(妙見)が決められ、その二つの星が生涯の運命を左右するといわれた。空海は境内に7つの星塚を定め、座禅を組んだ。今、御影堂が残っている。観心寺の開祖は、空海の弟子道興大師実恵(じつえ)となっている。この寺院は空海から託されたお寺なのである。
空海は大同4年(809)7月に太政官符を待って入京、和気氏の私寺京都高雄山寺(後の神護寺)に入った。入京については、後から帰国した最澄の尽力と支援があった。空海には支援者嵯峨天皇がいた。桓武天皇の第二皇子嵯峨天皇が兄平城上皇を「薬子(くすこ)の変」で追放して、天皇の地位を磐石なものにしていた。カリスマ性ある嵯峨天皇の強い指導力と政治力で、皇族の整備が行われていた。平城上皇の出家と上皇の子高岳(たかおか)皇太子の廃嫡、異母弟大伴皇子(後の淳和天皇)を皇太子に立てて、中央政権の安定が進められていた。弘仁9年(818)の弘仁格の発表で、朝廷の死刑制度廃止が決められた。嵯峨天皇の英断であった。
こうして、新しい真言密教を普及させようと、嵯峨天皇は空海と相携えて祭政の共同事業を工夫していた。嵯峨天皇はまず、空海を乙訓(おとくに)寺の別当に任じた。弘仁2年(811)のことである。乙訓寺は聖徳太子が建立した西岡で最も古い寺であるが、これを真言密教寺院とすることになったのである。嵯峨天皇は乙訓寺に行幸して空海と言葉を交わしている。二人はお互いに認め合う能書家であった。最澄もこの寺を訪ねて密教について宗論をたたかわせていた。空海は弘仁3年(812)11月には、この乙訓寺から高雄山寺に戻っている。空海は高雄山寺を真言密教寺院、灌頂道場とした。最澄はここで灌頂を授かっている。
また、「薬子の変」(809)の後、奈良の東大寺など南都寺院との関係修復や平城京や飛鳥朝古寺院の梃入れ手入れが課題となっていた。嵯峨天皇は東大寺に「真言寺」を建立し、空海を寺住にして、出家していた元平城上皇に灌頂を施して身分を安定させていた。さらに高岳親王を空海の弟子とさせ、甥親王の生きる道を求めさせていた。
嵯峨天皇にはなかなか親王が誕生しなかった。夫人橘嘉智子(たちばなのかちこ)が世子誕生を願って、大同4年(809)、山城国相楽郡(さがらのこおり)の鳴川傍の善根寺に「報恩院」を建立。帰国して入京したばかりの空海に同寺を託す。空海は法華経曼荼羅にある普賢菩薩を本尊とすることにして、姉の子智泉(ちせん)とともに像造に取り掛かる。仏師は椿井(つばい)双法眼。智泉も手伝いしていたところ、讃岐にいた智泉の母が突然現れて、仏像つくりを手伝った。その手だれに仏師が驚いたという。玉眼は智泉が入れた。智泉の呪願の甲斐あって、翌弘仁元年(810)に皇子が誕生した。この皇子は後の仁明(にんみょう)天皇である。空海に対する嵯峨天皇の信頼が増し、智泉の評価が高まったといわれる。なお、報恩寺は後年、近くの「岩船寺」と併せられたので、院号がそちらに残っている。
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