5.暴虐な桓武天皇
少しばかり遠回りになるが、嵯峨天皇の父桓武天皇の親政について触れておいたほうが都の政治情勢を理解するのに便利だと思うので、とりあえず、桓武天皇の業績と足跡を追ってみることにする。
平城京から長岡京へ、さらに長岡京から平安京へ遷都したのは桓武天皇だ。10年しか経っていない長岡京を置いて平安京へ遷都するという専制政治を押し通した暴虐的天皇。父は光仁天皇(天智天皇孫皇子)、母は高野新笠(たかののにいかさ)。生母は帰化百済人である。秦氏を名乗る一族で、百済国王族の系列といわれる。秦氏は山城国高野や西岡など桂川以西の稲作適地を所有し、農業の開発を進めていた。伏見の稲荷神社には秦氏の私氏神が祀られている。稲成りの神様である。桓武天皇が桂川以西の地を新都として選んだのは、ごく自然なことであった。
平城京は大川から遠くて、水運ばかりか、水不足で悩んだ都市であった。人口十万人ほどが生活する街が飲料水に困り、生活水や排泄水の捨て場に困った非衛生的な状態であった。街全体が非衛生的な環境が80年も続いたら、たいていの住民は街を逃げ出したいと思うのは当然のことである。
地方豪族と組んで何かと問題を起こす藤原京・平城京の天武天皇系の皇族。皇籍に入り込んだ藤原氏ら貴族たちは朝廷官僚と組んで、律令制度の整備のうちに私領化・特権化を進めた。寺院も国家安寧を願う朝廷と結んで官寺をいくつも創立、聖武天皇がさらに国分寺と国分尼寺を建立して地方領民の負担を重いものにしていた。
ようやく、聖武天皇系の権力の影が薄れたので、藤原氏式家(しきけ)の授けで天智天皇系の光仁天皇が出現していた。光仁天皇は身の安全を考え、酒浸りの生活を送る凡庸な皇族を演じていた長老的存在。貧乏なくせに、豪族や貴族の娘を幾人も受け入れる女にだらしのない男光仁天皇。
聖武天皇は伊勢神宮の斎宮姫を務めていき遅れた媛井上(いのえ)内親王をこの光仁親王に押し付けていた。井上内親王は酒人内親王と他戸(おさべ)皇子を産んだ。光仁酒飲み親王の娘(内親王)につけられた名前は皮肉に聞こえる。そして、天武天皇系母をもつ他戸親王は有力な王位継承資格ある皇子であった。藤原氏南家の後ろ盾があるうちは、他戸皇子は嘱望された皇子であった。宝亀2年(771)1月、他戸(おさべ)皇子は皇太子になった。
聖武天皇の娘井上内親王については数多くの伝承があるらしい。夫光仁天皇との不仲説、高齢出産の疑問がある内親王と皇子の誕生、妹不破内親王の夫氷上塩焼王(天武天皇皇孫)の「藤原仲麻呂の乱」連座、弟安積親王の怪死、光仁天皇呪詛の誣告、天皇姉難波内親王呪詛の誣告、天皇の生母の死去の時、呪術をかけていた噂を流された。斎宮姫だった聖武天皇王女対する恐れと嫉みが、井上内親王の身辺に渦巻いていた。
井上内親王は宝亀3年(772)、光仁天皇を呪った大逆容疑で皇后を廃された。同年5月、他戸皇子は皇太子の地位を外された。そして宝亀4年(773)11月、井上内親王が、光仁天皇姉難波内親王を呪い殺したとして、他戸親王とともに庶人とされ、大和国宇賀郡(五条市)に幽閉された。五条は紀ノ川上流、九度山よりもさらに東行した辺鄙なところである。罪人として、吉野に送り込まれたかたちである。皇子名が「他戸」とは不思議な名と私は考えたのだが、これで納得がいった。悪意のある当て字である。「おさべ」の字は別な文字が充てられていたはずである。宝亀6年4月、親王は幽閉先で母とともに急死する。藤原式家から謀殺の手が回ったものとみられる。天武天皇系の皇族はこうして、次々と消されていった。
桓武天が即位した頃は国家の財政危機が表面化していた。つまり、四十五代聖武(しょうむ)天皇が国家事業の中心に仏教を据えて、祭政一致理想を目指した政治姿勢の影が大きく桓武天皇の政治をゆがめていた。たとえば、40年に及ぶ奈良東大寺の大仏鋳造と大仏殿の建立の中で、次第に寺院の巨大化がすすみ、寺領と荘園の増大とが、律令制度の崩壊につながりかねない危機的な状況をもたらしていた。領民の負担が大きくなり、貴族と寺院が富を得る国となっていた。桓武天皇は華厳宗を初めとする南都六宗の寺院を抑圧する方針を執った。造東大寺司の組織も廃した。
ところで、藤原氏式家の媛を夫人とした山部(やまべ)皇子は秦氏を母に持つ百済人らしく大躯であった。性質は猛々しく戦闘的であった。念願かなって天皇に推挙されて桓武天皇となってからは、山城国坂上村の帰化人田村麻呂を重用した。大和朝廷の武威を誇り、東北地方の東夷征伐に田村麻呂を幾度も派遣して、東夷を成功させていた。坂上田村麻呂に降伏し、平城京に連れてこられたアイヌの指導者アテルイとモイを無益にも殺してしまう仁愛のない天皇であった。
桓武は秦氏が開発していた山城国長岡に目をつけ、専制的政治を行うために、遷都を考えたらしい。延暦4年(785)、長岡京遷都に尽力していた藤原種継が長岡京の開発中に矢を射かけられ殺された。このとき、桓武は同母弟早良親皇に嫌疑をかけ、淡路へ流配中に暗殺された。これが桓武天皇に一生付きまとう汚点となった。
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