6.平安京「東寺」
桓武天皇は平安京遷都にあたって、平安宮、朝廷八部省、神泉苑、羅城門、諸寺社など多くの施設を造営した。そのひとつ、つまり、「東寺」は桓武天皇が建立した寺だ。平安遷都の翌々年延暦15年(796)、藤原伊勢人が造営した。京都羅城門の東側に建てられたので、九条通り「東寺」と呼ばれた。
当初は東寺・西寺二つの鎮国寺が造営されて、東国と西国の鎮護を司る官寺であった。朝廷と貴族に人気があった東寺が大事にされて、「西寺」は次第にさびれて廃されてしまったという。そのきっかけは、ほんの些細なことであった。天長元年(824)のこと、雨乞いの祈祷が勅命で竜神が住むという「神泉苑」で行われた。当時の空海と西寺の守敏が祈雨の法を競った。空海の祈祷が天に届き、三日三晩の大雨が降った。天朝の信頼を得た空海は天長元年、苑内に聖観音を本尊とする真言寺院の建立に携わった。当然、朝廷における東寺の勢いが増した。
人気を東寺に奪われた西寺は、空海を待ち伏せ、矢を射かけて、側の黒衣の層に傷を負わせたという。雨乞いの競い合いに敗れた守敏(しゅび)が羅生門のところで襲ったとされるが、仏僧が弓矢を持って空海を襲ったとも思えず、西寺の寺人の仕業であったろう。羅生門の前のバス停に「矢取り地蔵」がある。
「東寺」で最も古い建立は南大門の北側正面「金堂」である。延暦15年に創建された。薬師三尊像が本尊として祀られている。文明18年(1486)土一揆で惜しくも消失したが、慶長8年(1603)豊臣秀頼の寄進で再建された。須弥壇の薬師如来本尊は安土桃山時代の仏師康生(こうしょう)の作品といわれる。
空海が最も力を入れて作ったのが「講堂」で、堂内21体のうち、15体は創建当時のものといわれる。いずれも一本木造り、貞観彫刻の傑作。堂内に立体曼荼羅を構成。大日如来を中心に五智如来、入り口に五菩薩、出口に五明王、同四隅に大日如来たちを守る四天王。四天王のリーダーとして、帝釈天(梵天)が白象に乗り、右手に独鉆を持った凛々しい姿が目につく。延徳3年(1491)に再建、慶長3年(1598)地震で大破したので、ふたたび修復され、密教寺院の奥ゆかしさが現在まで演出されている。
「五重塔」は薬師如来を本尊とされるが、像は本堂内になく、塔の芯柱を薬師如来像とみたてて、他の仏像を各階に配置してある。また、壁画が堂内壁面に描かれ、狭い堂内が胎蔵を思わせる佛界の雰囲気を醸し出している。早くから建立に取り掛かったにもかかわらず、高い棟は難工事であったため、空海生存中に落成を見ることができなかった。また、五重塔は落雷による火災炎上を幾度も重ね、現在の塔は徳川家光の寄進で完成したものである。塔の維持管理を考えて、今日では参詣者への公開は特定の期間に限られている。東寺の高い塔は昔から都人の誇りとするものであった。
ところで、空海が東寺を預かったのは弘仁14年(823)、嵯峨天皇が「東寺を長く空海に給預する」とした時からである。空海は50歳だった。嵯峨天皇は空海と最澄との宗論対立が激しくなったので、最澄の天台宗の確立を認め、空海には真言宗の根本道場を造営する官寺を与えることにしたのである。
大師はすでに高野山に密教修道場を造営中であったが、官営「東寺」を預かることになり喜んだといわれる。現在の東寺は宗教法人「教王護国寺」と称している。寺院の綱領として「朝廷を教導し国を守る寺院とする」ということである。嵯峨天皇はその考えに賛意を示したということであろう。天皇は空海に、さらに密教の教導に勤しむように求めた。空海は東寺境内に講堂と五重塔の建造に取り掛かった。「講堂」は立体曼荼羅の世界を造り、世人を喜ばせた。
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