7.高野山修禅道場の開発
次に触れるように遍照金剛大師は高野山道場の建設にあたり、まず、和歌山伊都郡九度山に「慈尊院」を建立した。寺院は「紀ノ川」上流の粉河をさらに遡り、「かつらぎまち」を過ぎ、「高野口町」の船着場で船を降りて、直線的に門前町を登ったところにある。陸路では、河内長野市から南行15`、国道371号で橋本市橋を通り、すぐ紀ノ川に沿って下り、門前町に辿り着く。
橋本市をそのまま通り抜けて371号を南に走ると高野山に至る。登山の道は慈尊院から九度山を数時間かけて登り、ようやく高野山大門のところに辿り着く。高野山は仏僧の修行場にふさわしい高山である。千b超える台場は深山らしく越冬のときは修行僧に厳しいところである。
諸国から運んできた石を紀ノ川から高野山に運び上げる。「石の道」というのがある。石などの船荷は高野口の船着場で降ろされた。たとえば、高野山霊場の奥の院の「結城秀康」の緑の墓石ははるばる越前から船で運ばれ、石の道を通りおさめられた。
慈尊院は現在、世界資産の指定を受けているが、その認定の根拠を理解しておかなければならない。
金剛大師は弘仁7年(816)に朝廷から許可された高野山真言宗修禅道場の開発に取り掛かっていた。大師は修行道場を造営するについて、まず、高野口町の雨曳山の山麓に参詣者の宿所、全山の政所(社務所)として、慈尊院をこしらえた。開基は実恵(じつえい)となっている。本尊は弥勒菩薩。寺の伝承によれば、建立は弘仁7年とされている。高野山道場として、最初の道場だが、厳冬時の避寒道場の役目を果たしていた。ここが高野山参詣の登り口につながっている。昔のこと、女性は女人禁制の高野山に入山できなかったので、この寺院にとどまって参詣した。だから、ここは「女人高野」と呼ばれている。
大師は弘仁8年からの高野山開発は弟子康範・実恵に委ねていた。同9年に高野山に登り、翌年まで滞在していた。七里四方に結界を結び、伽藍建立を弘仁10年(819)に取り掛かった。高齢になった大師の母阿刃氏(玉衣)は高野山に身を寄せたが、ここ慈尊院に住まいを置いた。
大師は高野山道場から数時間かけて、母に会いに通った。月に九度も山に通ったというので雨曳山は「九度山」と呼ばれるようになった。構内に「御影堂」がある。
阿刀氏は承和2年(835)2月に慈尊院で亡くなった。墓地は弥勒菩薩の横にある。大師生母は女人高野山信徒の象徴的存在となり、慈尊院は次第に聖地のようになった。たくさんの女性信者が参詣に来ている。
「慈尊院」の木造弥勒菩薩は国宝となっている。寛平4年(892)制作の平安朝の木造彫刻は秘仏として明治時代になるまで長い間公開されてこなかった。現在は21年ごとの開扉とされている。こんどの御開帳は何年後だろうか。
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