8.密教の普及に向けて
遍照金剛大師の密教布教は休みなく続けられた。
奈良東大寺に太政官符による灌頂道場「真言院」を建立(弘仁13年)、そして、大師は東大寺十三代別当となった。華厳宗総本山として、南部仏教の中心的存在だった大仏と大講堂を持つ東大寺寺院は新しく中国密教真言宗を入れる歴史的転換期を迎えた。東大寺はその後、南都六宗に真言宗と天台宗を加えた八宗兼学道場を持つ巨大な国家寺院となった。東大寺真言院建立の太政官符を出したのは左大臣藤原冬継だが、嵯峨天皇の勅によるものであった。嵯峨天皇の朝廷静謐の願いを受けて、この東大寺真言院で空海別当が僧籍となった元平城上皇の灌頂を授けたことは先に述べた。
高野山開発に手を染めた後、空海は勅命に従って、難工事に直面していた香川国琴平の満濃池の大改修を指揮(弘仁12年)、堤を完成させて水利に悩む香川の人たちを救った。土木技術の中国での勉強が役に立った。金剛大師の宗教界における指導者としての評価はいよいよ高まり、弘仁14年(823)太政官符により「東寺」を下賜された。空海の真言密教普及の努力とその成果が認められたのだった。
「東寺」を預けられた空海は東寺のとどまり、中国密教の普及と教導に心を砕いた。東寺西院の「御影堂」が空海の住いだ。現在、大師の念持仏不動明王と大師の坐像が御影堂に置かれている。惜しいことに、北朝年号康暦元年(1379)12月に御影堂焼失、翌年11月に再建された。この時期北朝天皇は後円融、将軍は足利義満であった。東寺の密教は「東蜜」とよばれた。
大師の密教布教活動は続いた。たとえば、天長5年(828)に、一般庶民のための学校「綜藝種智院」を東寺の近くに建立。学問・学業を勧めることにした。そして「綜藝種智院式并序」を残した。また、天長7年(830)淳和天皇の勅に応えて「秘密曼荼羅十住心論」十巻を著して、密教の宗論を公にした。さらにこれを要約「秘蔵宝論」三巻として御門に献上している。
一方、高野山の開発には膨大な資金と労力を注ぎ込まれたが、天長9年(832)、ようやく高野山壇上伽藍の「金堂」が完成。同年(832)8月、万灯会(まんとうえ)の落成式を行うことができた。大師はこの年の秋から高野山に居を構え、全国の真言寺院僧侶の修道の指導に入った。
空海は御礼の意味を込めて、朝廷へ承和元年(834)に「宮中真言院、正月御修法」申し出の奏状を提出、翌年承和2年に「御七日御修法」を行うことができた。さらに、承和2年(835)2月、東大寺真言院で、「法華経」「般若心経秘鍵」を講じた。
嵯峨天皇と空海との間には堅い信頼関係が続いていた。空海の病気理由の隠棲願いは嵯峨天皇の慰留で聞き入れられなかった。だが、大師は入寂の準備に入り、多くの人の至福と国家の安寧を願う姿を弟子たちに見せていた。承和2年(835)3月15日、大師は高野山の弟子に遺言、3月21日に入寂した。享年は満60歳だった。母阿刀氏の後を追うような形となった。
21日が大師遍照金剛の月命日である。現在でも東寺では毎月、大師様ご縁日の供養(御影供)がおこなわれ、境内で弘法市(骨董市)が開かれる。その日は大勢の信者が集まる。
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