9.空海の若いころの足跡

多くの仏徒に慕われた大師について少しばかり述べる。
空海の幼名は「佐伯真魚」(さえきのまうお)。宝亀5年(774)、香川国多度郡(たどのこおり)屏風浦に生まれる。中国密教の大成者不空三蔵の入滅の日に生まれたと解説する人がいる。父は佐伯直田公(さえきのあたい たきみ)善道。「郡司」という地方官である。郡政所(まんどころ)構内に善通寺ができたかたちであろうか。佐伯氏について調べてみた。

佐伯氏について、言い伝えがある。
佐伯氏は古代から続く豪族である。天皇家が熊野から大和に侵入したときに降った大伴氏の末裔である。大連大伴室屋から後を継いだ神部氏族。佐伯部を率い、朝廷の武人として天皇に仕えた。そして宮廷門の警固を永く仰せつかった一族。警備する宮中西門は「佐伯門」とよばれていた。平安朝の唐風化に従って、音声が同じ、「藻壁門」に替えられたという。

佐伯氏の衛士には東北から連れてこられた東夷が組み入れられていた。空海が幼少の頃、参議にまで昇進した佐伯今毛人(いまえみし)は初め甲賀宮司、次に造東大寺次官、右衛士督、造東大寺長官、造西大寺長官、太宰の大弐、造長岡京使を経て、民部卿にまで栄達した人だが、東夷の衛士旗頭らしい名前だと思う。

地方の佐伯氏は1、播磨・讃岐にいた景行天皇系と伝えられる佐伯氏。本姓は直(あたい)。2、河内・阿波・安芸・越中・丹波に散らばっていた佐伯氏。1、2は各地の佐伯部を統率する地方的伴造(とものみやつこ)とさらに中央の上級伴造佐伯氏に従属していた。空海は讃岐多度の佐伯直田公義道の子息。幼い時から素晴らしい頭脳の持ち主で、意志の強い子であったらしい。

空海の母は「阿刀玉依」。阿刀大足(あとのおおたり)の妹である。阿刀大足は法相宗の流れをくむ学者で、桓武天皇の皇子伊予親王の侍講を務めていた。阿刀氏は渡来人の子孫。一族には学者、僧侶が輩出している。河内国渋川郡跡部に本拠地を持っていた。いまの八尾・東大阪あたりになる。物部氏の系列である。祖神・饒田命(うましにぎたのみこと)を祀る氏神社を平安遷都のときに、京都右京区嵯峨広沢南野町に遷座させている。

延暦8年(789)、15歳の若い空海は平城京か長岡京に大足を訪ね、論語や儒学、孝経を教わった。延暦11年(792)18歳のとき大学寮に入れてもらった。儒学を研究する明経(みんぎょう)科を選考する学徒となったが、仏教山岳修行に入るために延暦12年(793)に退学した。

これに憤慨した父に向けてか、母方の伯父阿刀大足に対してか、空海は道教・儒教・仏教の比較を論じて、なぜ自分が仏教に身を投じたかを「聾瞽指帰」(ろうごしいき)を書いて弁明している。

空海は修験場の和泉国槇尾山「施福寺」で剃髪、単身で山林修業に入った。導師は勤操(ごんぞう)、空海の生涯の師にあたる人である。勤操は後に奈良「大安寺」を預かることになる。空海の姉の子智泉(ちせん)を空海は大安寺の勤操に預けている。若いころから、随分と剛穀な人であった。私度僧は和泉国の山岳や吉野の峰々を登り、吉野金峰山(きんぶせん)などに分け入った。さらに四国中を歴訪、讃岐白槌山などで厳しい修行を続けた。

若い僧は山岳修行を続けるとともに、奈良の大安寺(南大寺)と東大寺、飛鳥の久米寺などの諸寺を訪れ、「大日経」をはじめ密教諸経典を学ぶ。その時、経典を勉強するために訪問した大安寺で、沙弥「戒明」に「虚空蔵求門持法」を授かった。次いで、経典の研究に詳しい南都法相宗の指導者「善珠」を興福寺に訪ねて、教えを乞うている。

善珠は「法師俗姓安都宿称」といわれていた。法相宗の頂点「玄ム」は善珠の父である。だから、「玄ム」「善珠」とともに阿刀氏である。善珠の母は藤原宮子。これはとんでもないことである。藤原宮子は文武天皇の夫人。首(おびと)皇子を産んでから、長い間、精神的不安から、皇后の役割を果たせずに、興福寺の僧侶玄ムの世話になっていたからである。首(おびと)皇子は後の聖武天皇である。成人した天皇は38年振りにか、偶然に母宮子に会った。宮子に「皇后」の名誉な称号を贈った。聖武天皇は穏やかな性格の人であったようだ。