10.文武天皇と藤原京、元明天皇の平城京遷都

四十二代文武(もんむ)天皇は、天智(てんじ)天皇の姫阿閉(あべ)皇女を母とする系統に恵まれた問題ない生まれである。珂瑠(軽)皇子とも呼ばれた。父は草壁皇子である。母阿閉皇女の異母姉「持統天皇」は草壁皇子を産んでいるので、軽皇子からすれば、持統天皇は祖母にあたる。軽皇子は697年8月に祖母から譲位を受けた。15歳であった。若過ぎる天皇の政治を補佐するため、持統は太政官政治を取り仕切った。この時、藤原不比等が、律令制度の整備を行った。農民は黄色の衣服、農奴・奴婢は黒衣を着ることなどが定められた。税の義務が細かく整備された。皮肉なことに文武天皇冶政の後半5年は律令制度の整備にも関わらず、天災、干ばつ、飢饉それに疫病が続き、不安な世情であったといわれる。

文武天皇の即位のとき、藤原不比等の養女宮子が入内する。軽皇子が紀州御坊の九海士村から連れてきた村長の娘である。髪が長くてきれいな娘であったという。文武天皇は体が弱く、10年の治政で終わってしまった。不幸な夫人宮子は皇子首(おびと)を産んでから、飛鳥朝廷を離れている。

宮子のもう一人の子法相宗の指導者「善珠」は朝廷と宗教界に繋がりを持っていた。善珠は皇太子安殿(後の平城天皇)の信頼厚く、桓武天皇の弟早良親王とも親交があった。

空海が若いころ眺めた平城京は寺院の美麗なたたずまいと、国際色蓋かに外国人たちが行きかっていて、長安の都を思わせるものであった。空海は平城京で中国密教を学びながら、唐に渡り仏教をさらに極めたいと考えたであろう。ここで、往時の平城京の巨大寺院の風景を想像することにしたい。

まず、藤原京から平城京へ遷都するときの経緯を追ってみる。
慶雲4年(707)元明天皇の即位の年である。文武が若死にしたので、母阿閉(あべ)皇女が皇位を急遽継承した。この年に遷都の審議が始まった。遷都の詔は和銅元年(708)、遷都が始まったのは和銅3年(710)であった。遷都を積極的に進め、政治の中心となったのは右大臣藤原不比等であった。藤原京には左大臣石上麻呂が残り、旧京を管理していたが、和銅4年(711)に火災が発生、遷都の勢いがさらに増したものと思われる。

新都の範囲は、現在の奈良市と大和郡山付近。街区の形成は朱雀通りを中央に左右に街を二分。北に向かって西側が右京区、東側が左京区、そして左京区から東側に伸びた外京(がいきょう)がある。建設はまず、内裏と大極殿、それに右京(西の京)の貴人たちと高級官僚とが住む官舎が建てられた。左京には官僚と庶民が住む街ができた。その後、藤原京時代の寺院が続々と移築された。平城京の人口は約10万人、官僚は約1万人、僧職を持つ者の総数は官僚の数と同じく律令で定められていた。

藤原京から平城京に移築された寺院は左京に真言大安寺(舒明天皇建立百済大寺・高市大寺・大官大寺)、律宗元興寺(曽我氏氏寺、法興寺・飛鳥寺)、右京の法相宗薬師寺(天武天皇発願・持統天皇建立、藤原京本薬師寺)であった。それに、山科から移した法相宗興福寺(山科厩坂寺、藤原氏氏寺)の4つが官寺である。いずれも官寺らしく巨大で華麗な白鳳・天平の寺院らしい華麗荘厳な伽藍であった。

大安寺は奈良の「南大寺」とも言われた大寺であった。聖徳太子の発願、舒明天皇の創立となった百済大寺(くだらおおてら)と高市大寺(たけちのおおでら)が前身の寺であった。高市大寺は父舒明天皇三十三回忌、母斉明十三回忌に当たるとして天武天皇が、天武2年に造営していた。高市大寺は後に大官大寺(だいかんだいじ)と改名されている。

平城京の大安寺は東西に2基の七重塔を持つ大伽藍が「道慈律師」によって創設されている。道慈は大宝2年(702)に入唐、長安の西明寺に16年間学んだ学僧であった。その西明寺を模した荘厳な伽藍が大安寺であった。空海は「大安寺は是興室の構え、祇園精舎の業なり」と述べている。残念ながら、寛仁元年(1017)火災で伽藍を焼失、八世紀制作の木彫刻も9体が残るだけになり、寺院は往年の荘厳さを取り戻すことはできなかった。

猿沢の池の南に南北に長い境内を持っていたのが、「元興寺」(がんこうじ)である。飛鳥の法興寺(飛鳥寺)を移設したもの。曽我氏の氏寺であったが、平城遷都を機に官寺となった。飛鳥時代の法興寺は大安寺に対抗する三論宗の学問所であり、興福寺に対抗する法相宗の飛鳥流の学僧の集まりであった。平安中期ごろに宗勢の衰えをみせて、わずかに真言宗の僧を輩出するようになった。

真言律宗元興寺の伽藍は次第に荒廃分離し官寺の役目を失っていった。伽藍とはなれた僧坊が禅寺として檀家を持ち、私寺として宗教活動をしていた。その僧坊の一つが「極楽寺」として智光法師が説く「智光曼荼羅」を見せて信徒を集めた。そして当時の寺院としては初めて、境内に墓所を持つ寺院となった。元興寺伽藍は律集宗道場として生き、いきながらえて西大寺末寺となり、「観音堂」は東大寺末寺になった。有名な五重塔は江戸時代に消失したままである。飛鳥に残された「飛鳥寺」は明日香村に現存している。

ところで、猿沢の池から北を遠望する「興福寺」の五重塔は好い眺望である。この寺は藤原氏の氏寺。藤原鎌足が夫人鏡大王の病気平癒を願って京都山科の私邸に建立した「山階寺」が前身である。後に「厩坂寺」が建立されたのを藤原不比等が移動させた。

藤原京の「本(もと)薬師寺」から奈良西の京に移されたのが「薬師寺」である。近鉄橿原線「西の京駅」から徒歩5分。東塔・西塔・金堂が遠くから見える大伽藍である。天武天皇が病気の皇后鵜野讃良(うののきらら)の平癒を願って、天武9年(681)に像造を発願して、像を納める寺院を藤原京(橿原市城殿の町)に建てた。竣工を待たず天武天皇は朱鳥元年(686)に没したので、鵜野讃良皇后(持統天皇)の手で薬師寺は完成した。本尊薬師如来は三尊だが、いずれも銅製で、天武天皇が百済・高句麗系渡来人の技術者を抱える一族であることを示している。平城京への移転完了は、養老2年(718)であった。藤原京の「本薬師寺」は十世紀頃まで存続していたようである。

平城京を語る時、「東大寺」と「唐招提寺」に触れないわけにはいかぬ。聖武天皇は各地方の治政に国分寺・国分尼寺(金光明寺・法華時)を置くことにして、天平13年(741)に詔を出していた。平城京に建てた聖武天皇の皇子基親王の追修の寺「金鐘山寺」(737建立)が国分寺として、盧舎那仏を本尊とする大仏寺になったのが「東大寺」である。鑑真和上を唐から招き、東大寺における僧の得度儀式「具足戒」を授ける導師として、また華厳宗教義を講義する師として仏教界に尽くしてもらった。鑑真和上の引退後の「唐招提寺」は戒壇院として、西の京「薬師寺」の北側1キロのところに。静かな境内をつくっていた。

奈良朝75年のなかで、華厳宗「東大寺」、律宗「西大寺」、戒壇院「唐招提寺」など大寺が創立された。このあと、空海は奈良朝後期の爛熟した時代にこれらの寺院で教学を学んだ。

空海が南都六宗の指導者たちと幅広い交流を持つことができたのは、母の実家の一族との友好的関係があったからである。これこそが空海が宗教界と朝廷に受け入れられる下地となっていた。

桓武天皇が南都六宗の政治力を嫌って、平城京を捨てたにも関わらず、どうしても仏教界にすがることが続いていた。平安朝の桓武は20年ぶりに派遣を決めた遣唐使団に僧侶を含めることにした。平城京南都六宗派の影がぬぐいきれなかった。

延暦22年、第16次遣唐使船が出国に失敗したので、翌23年の新しい派遣団が選考されるようになった。空海はこの機会を逃さなかった。

空海のような私度僧が唐に留学するには、父佐伯一族、母阿刀一族の支援がなければ実現できなかった。私度僧の身分では遣唐使船に乗ることはできない。官寺の僧侶になる必要があった。延暦23年(804)、東大寺戒壇院で、得度受戒して、僧籍を得た空海は、阿刀大足や山の民、農民たちからの資金提供を得て、遣唐使船に乗ることができた。空海は31歳になっていた。ここで、空海の姉の子、菅原氏智泉が、従者として遣唐使船に乗り込んでいたことを記しておく。