11.むなしく入り充ちて帰る

第16次遣唐使船に運よく乗り込めた空海は、延暦23年(804)春、難波を出て、唐津、五島を経由して、同年8月、予定地を外れて、福州長湲県赤岸鎮に漂着した。語学の天才空海は、海賊と疑われた一行を代表して、外交使節であることを証明する大活躍をしたという。最澄が乗船した船は別の海岸に漂着している。

空海一行は延暦23年12月、長安に入ることが出来た。空海は長安醴泉寺でインド僧般若三蔵に梵語を習った。そこで梵語の教本と新釈経典を与えられた。翌24年(805)5月、中国密教第七祖、青龍寺の恵果和尚を訪ね、師事することができた。恵果和尚は空海の非凡なる才能と学識、経典の習熟に理解を示し、中国密教の日本での普及を空海に託することを決めたといわれる。

空海は6月に大悲胎蔵の学法と灌頂、7月に金剛界の灌頂を受けた。空海は二つの灌頂で、大日如来と結縁したとされる。8月には伝法阿闍梨位の灌頂を受けた。「この世の一切を遍く照らす最上のもの大日如来」を意味する。「遍照金剛」の灌頂名を授かった。すぐさま、空海は青龍寺と不空三蔵ゆかりの大興善寺の500人ほどを招待、阿闍梨位を得たことを披露した。それから大勢の人が曼荼羅と密教法具の制作、経典の書写に関わり、恵果和尚から託物を与えられた。12月恵果和尚は入寂された。

空海は延暦25年(806)3月に長安を出発、4月福州へ、四か月の滞在。ここで、土木技術、薬学の多分野を勉強。遣唐使判官高階達成の帰国船に便乗、8月明州を出発帰国の途に就いた。海上で暴風雨に遭い、五島福江島玉之浦大宝港にたどりついた。大宝寺に本尊虚空菩薩があると知った空海は参籠、満願の朝に明星の瑞光を観る。修行してきた中国密教が日本の鎮護に効果をもたらすと信じた空海は寺を「明星院」と名付けた。それから、大宝寺は西の高野山といわれるようになった。

空海は大同元年(806)10月、大宰府戒壇院に滞在、朝廷に「請来目録」を提出した。桓武天皇は既に崩御、平城天皇が即位していた。20年の留学予定を2年で帰国したのは「闕期(けつご)の罪」にあたるとして、入京は許されなかった。あまりにも早く終わった修学を朝廷は認めなかった。南都仏教界の僧侶たちも空海の功績を信じることができなかったらしい。ようやく嵯峨天皇が空海の偉業を評価して、大同4年に太政官符が出された。空海の京都への入京は紆余曲折があった。

帰国後の軌跡については、「空海求道入道」「嵯峨天皇と空海」の項目を参考にしていただきたい。