12.高野山宿坊「大圓院」と理源大師聖宝
お礼参り一行は高野山の宿坊「大圓院」に一泊した。このお寺さんの開基は聖宝(しょうぼう)理源大師である。真言宗小野流の祖。天智天皇の六世孫で、俗名「恒藤王」。父は「葛声王(かどなおう)」。空海の実弟「真雅」が東大寺別当の時、16歳で入室弟子に。源仁(真雅の弟子)付法弟子であった。出家してから長い間、三論宗を中心にして南都諸宗を学ぶ。後年、本格的に受法、真言密教の正嫡となった。
五十九代宇多天皇の帰依が厚く、東寺長者僧正などの重職に。貴顕社会との交流を重視した師真雅に比べて、清廉潔白、豪胆な人柄で、「真雅」在世中は真言宗で傍流的存在であった。しかし、宗論に偏することなく、吉野の金峰山での山岳修業を務め上げて、修行道の整備、仏像の像立に奉仕を惜しまなかった。だから、「当山派修験道」の祖といわれる。寛平2年(890)、「貞観寺」の座主に。師真雅が852年に創立した寺である。そして、延喜5年(905)、佐伯氏の氏人から東大寺東南院を預けられ院主に。三論教学の拠点となった。
聖法は醍醐山の修験場を開いた。貞観16年(874)伏見山科小野庄をやや離れた笠取山付近で地主横尾明神とあい、上醍醐の山上に霊雲と霊泉(清滝)があることを示される。聖宝はそこに、准胝観音像と如意輪観音像を入れる「准胝堂」を貞観18年(876)に完成させた。これが後の「上醍醐寺」となった。広大な域内は修験場として、僧侶の修行に使われた。
延喜2年(902)のこと、聖宝に両観音化身・清滝権現を名乗る神女が降臨、「元の名は青龍。唐青龍寺に住んでいたが、密教を学んだ空海に乞うて三昧耶戒をうけて、津妃命の名をもらい、日本に帰国する大師を守り渡日。笠取山東方の高峰を居所としている。水にちなんで名を清滝と改めた」といった。聖宝は清滝宮の拝殿をしつらえた。そのほか薬師堂(本尊薬師如来)、五大堂(国家鎮護の寺)、開山堂(講堂、のち豊臣秀頼が下醍醐に再建)、清滝井戸を順次開創していった。聖宝はここを隠棲の場所とした。
少し書き加えておく。修験場(笠取山)から下ること小一時間、下醍醐に延喜7年(907)、醍醐天皇の勅願寺「醍醐寺」が建立された。こちらの方が小野庄に近い。朱雀天皇、村上天皇の帰依も厚かったので、大伽藍ができた。ここに女人堂、弁天堂、清滝宮本殿が建てられたので、貴人、女人の参詣者が増えていった。中世には応仁の乱や火災で、ほとんどの御堂が失われて、現在国宝となっている五重塔を残すだけに荒廃した。秀吉が慶長3年〜5年、紀州湯浅の満願寺から移築した「金堂」が有名であった。それに醍醐の桜で有名な「三宝院」があった。大圓院の開基聖宝(しょうぼう)の偉大さを紹介したかったので、少し筆がすべった。
ところで、大圓院の八世住職滝口入道は平安時代、平重盛の配下、滝口武士で斉藤時頼といった。「平家物語」で賢礼門院の雑仕女横笛との恋物語に取り上げられた人である。恋情を断ち切って出家修行をかさねた滝口入道は高野聖となり大圓院の座主となった。
宿坊の玄関近くに井戸がある。恋に絶望した横笛は堰に身を投げて鶯に化身した。鶯は大圓院の井戸の傍の梅木に留まり、滝口入道の目の前で井戸に飛び込んだ。と、高山樗牛は小説に書いている。井戸の横に小さな石塔がある。
時代は下がり文禄元年(1592)のこと。秀吉に領国拝受に大阪に上京した立花宗茂が、高野山に岳父立花道雪、厳父高橋紹運の石碑を納めに大圓院に現れた。立花道雪は豊後の戸次(へつぎ)庄にあるときから、守護大名大友家の一族として、多聞院(大圓院前身)と師壇の契りを結んでいたからである。宗茂はこの折に、大圓院の宣雄阿闍梨と師壇の契りを結んだ。大圓院の祭壇にいまも大圓院殿松陰宗茂大居士の位牌がある。私にとって奇遇であった。
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