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1.本願寺ならびに毛利との戦い
天正4年(1676)2月に畿内をほぼ制圧した信長は、3月、安土の新しい信長館に移り住んだ。建設中の安土城は戦さ城でなく、朝廷の皇子を抱く征夷大将軍の政所ともいうべき政治の館城の計画であった。織田軍団の諸将の屋形を城山麓に置いたが、織田武将たちを織田支配領全体に配置していたので、普段の安土城は織田一族の居館と馬廻り衆の住まいに人の気配がするだけの静寂な雰囲気の山城であったという。
天正6年(1578)3月のこと、上杉謙信が突然脳卒中で死去したので、越中から上洛して織田の勢力を駆逐する意思を示していた上杉軍は目標を失い、あとを継いだ上杉景勝は領主の立場を固めるのが精一杯であった。上杉勢と均衡を保っていた越前一向宗門徒の運命は上杉とともに尽きた有様で、織田北陸軍の草刈り場の様相を呈していた。信長は越前柴田勝家軍に寄騎、前田利家、佐々成政を付けていた。柴田軍は信長の督励を受けて懸命に越中に攻め込んでいた。
上杉軍の上洛を頼みに、どこまでも反逆の志をすてない松永久秀が信長に突然反旗を揚げた。だが、これは結果的にタイミングを誤った暴挙となった。武田信玄の上洛を待って旗揚げをした失敗をまたも繰り返すことになった。天正5年7月、本願寺と交戦中の天王寺砦から信貴山に引き上げた久秀は10月上旬、織田信忠、光秀、藤孝、順慶から攻撃を受ける。久秀と気脈を通じていた荒木村重は天王寺砦を動くことができなかった。久秀は信長軍から総攻撃を受け、生駒信貴山城にこもり、織田信長が欲しがる平蜘蛛の窯を抱えて自爆するという一大事となった。
同じく、荒木村重の見通しも誤っていた。織田水軍は、三好戦や長島征伐の時に舟の補強に成功していたので、織田水軍の天王寺海面の封鎖は一時的に成功していた。が、毛利水軍は木津川口の淀川、難波海上封鎖をしていた織田水軍を打ち破り、本願寺への食糧救援に成功していた。織田の巨船が毛利軍に通用しないと判ると、信長は新しく鉄甲船を作り出して、今度は制海権を有していた毛利水軍を難波や堺の海上から追い払ってしまった。一度は成功した本願寺への海上からの補給は絶望的になってしまったので、本願寺は食糧に困る状態になってしまった。
荒木村重は信長の指示で顕如と交渉を続けたが、和睦を引き出すことが出来ず、信長の信頼に応えることができなかった。信長は村重を姫路の秀吉配下にまわした。姫路西部戦線は、毛利軍の反撃と三木城の反旗にあって孤立していた。信長は播磨に織田信忠を総指揮者として、藤孝、信孝、信包、長秀らを擁する大軍を出動させた。村重は三木城包囲網の軍に加わっていた。
秀吉は毛利から奪った美作の上月城に尼子勝久を詰めさせていたのだが、吉川元春の毛利軍との対峙を強いられた。信長は備前・美作の毛利大軍と去就定かならぬ宇喜田直家軍の前に、上月城を見捨てることを命じた。
摂津と播磨灘は村上水軍と毛利水軍の活動が続き、織田軍は本願寺勢を長期にわたって包囲せざるを得なかった。ところが、摂津奉行の荒木村重は信長配下として本願寺勢を水際で食い止め役を持ちながら、顕如との交渉役を受け持つという重責を担っていた。だが、顕如を説得することが出来ずに、信長から姫路最前線に回るように命じられていた。その時、播磨は毛利軍の戦術的巻き返し状態にあり、諸城は毛利方に気脈を通じるという危機に陥っていた。秀吉は姫路城西の書写算山に前線指揮をとっていた。更に、織田信忠を総指揮者とする軍団を姫路に置いた。信忠の指示で荒木村重は三木城包囲作戦に従っていた。
とろこが、村重は突然三木城包囲を放棄して、有岡城に帰城し反織田の姿勢をとった。信長は松井友閑、光秀、右近を派遣して糾問したが、村重を翻意させることはできなかった。毛利攻めに躍起となっていた秀吉は黒田官兵衛を村重の居城有岡城のもとに送り込んで説得させた。信長は村重の配下高山右近を強引に村重から引き剥がした。誠実な右近には「キリシタン宗門を圧迫する」と後ろから刃を突きつけるような卑怯なことをした。中川清兵衛にも反信長の旗を降ろすことを求めた。高山右近が離れても、村重は信長に屈しなかった。「安土往還記」「反逆」などで歴史化が村重の反逆について執筆しているので、さらに村重研究を進めたい。
本願寺支援体制が整っている毛利戦力を考えて、信長包囲網に組した方が長期戦略上有利と考えたのか、村重は有岡城に反信長の旗を立てた。村重が何故に信長から離反するのか、信長と織田方諸将は首を傾げた。そして、信長の説得を振り切った村重は顕如と盟約を結び、反信長の姿勢をはっきりした。だが、毛利からの援軍派遣は籠城一年を経ても届かず、荒木村重支援の動きは次第に尻すぼみになった。天正6年11月局面打開を図るために有岡城を離れた村重は、城守備の家臣に裏切られて城を失う羽目に陥った。やがて、三木城も籠城飢え干しの状態で秀吉軍に屈した。
「天下布武」を急ぐ信長はいよいよ中国地方と四国地方の支配を狙って、織田信忠を軍団長として動かすことにし、軍備の整備をすすめていた。信長は天正3年(1575)11月に自分の嫡男信忠に織田家頭領の地位を譲っているつもりであった。信長は家臣に対して冷酷に立ち回り、すきを見ては家臣から取り上げ自分と信忠の領地とすることに腐心していた。天正9年の安土城築城までに林秀貞、佐久間信盛、塙直政・安友、安藤守就、丹羽氏勝を追放し、封地を取り上げていた。むろん、追放した荒木村重の領地もである。
信長は天下の財を狙い、富者と貪欲に取引をして、一方的に文化財を集めていた。絶えず休まず部下をこき使う貪欲な信長に対し手、荒木村重、別所長治や松永久秀ら信長に心服できない武将ら国衆は、反信長勢力本願寺や上杉謙信、毛利輝元が信長を包囲する姿勢を見せたときに突然反旗を翻した。信長はすべての反逆勢力を徹底的に報復、天下に恐怖政治の専横君主であることを示した。
そして本願寺の顕如を屈服させて、実質的な織田幕府を安土に開いたときに、朝廷・公家勢力は信長に従わない明智光秀と陰で結んで、本能寺の変を引き起こした。「驕慢のあまり、あおむけ様に転ぶ」と安国寺恵瓊(えけい)が予言したとおりの悲劇がおこった。
疑心が強い信長は、家臣のみならず同盟の徳川家康までも長い間、追い詰めて苦しめていた。羽柴秀吉は信長の四男於継秀勝を養子に貰い受け、中国戦線に伴い初陣させるなど、涙ぐましいほど信長のご機嫌取りをしていた。秀吉は信長の強欲と吝嗇と冷酷な性格をわきまえて、自分の領国は海の向こうの大陸とすると広言し、信長の疑心をかわして、うまく立ち回っていた。羽柴秀吉は膠着する播磨戦線の転換を考え、戦線の指揮権を信長の嫡男織田信忠に渡して、主君織田信長を中国道に引き出す算段をしていた。秀吉哀訴を受けて、信長は信忠軍を岐阜・美濃から洛中に移動させた。そして、信長自身も中国道に移動することにしていた。秀吉の策略は成功していた。
信長はさらに、坂本の明智光秀を急遽、山陰地方の吉川元春との対峙に回すことにした。徳川家康の饗応に忙しい坂本城の光秀を引きはがすようにして、秀吉が張り付いている中国地方の応援にまわすことにしたのである。
随分と軍勢と戦費を消耗してきた信長であったが、一向宗徒との戦いを、信長は有岡城と三木城とが陥落するまで続けた。天正7年(1579)、天朝の仲裁もあって、本願寺顕如上人は泉州に退去することになり、天正8年、石山本願寺の反信長の宗教戦争は終焉した。
また、戦うのに疲れを知らぬ信長は長曽我部の支配地四国を取り上げるために、織田軍団を四国に入れることにしていた。それまでの外交調略の担当明智光秀を外して、新しく羽柴秀吉の献策に従って、三男、織田信孝に丹羽長秀を添えて、四国全域を織田の領土とする準備を進めていた。天正10年春から、堺近くからの対岸渡海を急がせていた。だから、全面的な屈服を要求する信長と部分的譲渡を条件外交に展開する長宗我部元親との間で、面目を失った明智光秀は躊躇なくはずされた。ここに信長の冷酷な性格がはっきり見える。明智光秀からすれば、主として従うには信長は暴虐な主君であった。
また、武田氏を滅ぼした信長は森長可を信濃に配置し、勝家とともに越中を攻めさせていた。武田勝頼を滅ぼした後の新領土上野国と関東国の領知は滝川一益に任されていた。甲斐の国は老臣、川尻秀隆に委ねていた。協力した家康には駿河一国を分譲したので十分であった。家康への謝意を示すために、信長は新築まもない安土城に招聘することにした。 |
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