2.元亀 ・天正 諸将の動き

 将軍義昭と信長とに対する三好党、本願寺、浅井、朝倉、六角、畠山ら旧勢力は反信長の姿勢を強め、包囲網を作った。信長は敵対する勢力をすべて打ち破る戦いを挑んだ。旧勢力は後退を続けながら、信長から離れ始めた将軍義昭のもとに、反抗の輪を全国的に広げていく。本願寺と武田信玄、本願寺と毛利軍との連携は信長の体制を揺さぶる。信長と友好的だった上杉謙信とも朝廷を巡って、また正義を貫く姿勢でもって、二人は新たな抗争を始める。

 信長側の体制に組み込まれていた松永久秀は、信玄の西進や謙信の征西の時に信長から離れて、三好党によりを戻そうととして、つまるところ自滅の道を辿る。

 また、将軍義昭を抑える武将として信長に重用された荒木村重は本願寺攻めの部署を受け持ちながら、本願寺の反信長の抵抗を和睦に持ち込むことができずに、信長から播磨攻略中の羽柴秀吉の配下に追いやられる。毛利水軍の畿内突入のときに、天王寺砦を動かずに、信長から援けられるという醜態を演じてしまっていた。

 秀吉から「駆けることを知らぬ男」と評された村重は、毛利軍の戦力を期待するという誤りを犯して、突然、三木城の別所長治に準じて信長に反旗を翻す。一年間の有岡城籠城もむなしく、本願寺を援けることもできず、荒木一族皆殺しの見せしめを受けて、毛利領へ逃亡する。勇猛を謳われ、信長に寵用された武者は「犬の糞のような無価値な人間だ」と自噴しながら消えていった。織田信長の高圧的な態度に耐え切れず、秀吉のような真似ができなかった男村重。作家遠藤周作は「反逆」で、村重の心理を描いてみせてくれる。


安土城 天主閣落成

 天正9年(1581)9月、安土城天主閣は内装も美々しく落成した。瑠璃瓦が映える五層七階の天主閣は安土山の東面大手道から見上げると、それは素晴らしい景観であった。西空の彼方は琵琶湖が拡がる。夕空に際立った異形の天主閣に誰もが感嘆の声を挙げた。

 天主閣は本丸に繋がっていた。そして本丸横の別棟に清涼殿が出来上がり、誠仁親王と「五の宮」を二条新邸から迎える準備が成っていた。信長は天正7年11月に、二条新邸を誠仁親王に献上し、五の宮を猶子としていた。天正10年3月、武田氏を滅ぼし武田領の支配を終えたいま、五の宮の父、誠仁親王への天皇譲位と、信長の征夷大将軍就任、そして、太政大臣近衛前久(さきひさ)の子、近衛信基の関白就任を計るように中納言勧修寺豊晴に武田征伐の遠征地、甲斐から文書で督促した。

 武家の頭領として征夷大将軍に就任して、日本全国を支配する天下取りをいよいよ実現する段取りに入ったと考えていた信長。「天下布武」が現実味を帯びてきたと思っていた政治家信長。武田遠征の時、正親町天皇の勅旨を無視して、武田氏を断絶せしめ、武田信玄の名誉を守る恵林寺(えりんじ)の僧侶たちを山門で快川和尚ともに焼き殺すなど暴挙を繰り返し、専制君主になってしまった信長。

 織田家の当主織田信忠は遠征先で信長の意向に逆らえなかった。上諏訪神社を焼き払ったし、降参した小山田信茂(大月岩殿城)と勝頼の乳母、諏訪の局らを打ち首にするなど、武田一族に対する非常な仕打ちをしていた。逃亡を続ける武田勝頼を打ち払った不忠小山田信茂を許さぬ心情が判らなくもないが、勝頼の乳母まで首にするとはやり過ぎである。

 信玄の甥、武田信豊(典厩信豊)も木曽谷で信忠軍に破れ、小諸まで逃げたあげく、城代に裏切られ自害、首を信忠に獲られた。滝川一益から届けられた勝頼の塩付け首も信長に届けられた。信長の妹の子と勝頼との間に生まれた勝頼の嫡男16歳「武田信勝」の首と典厩信豊の首も信長が検首のあと、勝頼の首とともに京に送られ、河原に晒されることになった。

 信長には死者に鞭打つような残忍な性質があり、惻隠の情というものは持ち合わせなかった。武士の忠節を尽くす行動の美学を評価する考えを持っていた彼は、高遠城に籠り武田の領土を守って最後まで奮戦した仁科五郎信盛に対しては敬意を表し、主君の首をわが命に代えて守ろうとした忠臣小山田大学の嫡男の願いを聞き届ける雅量は持ち合わせたらしい。だが、信盛の首は京に送られてしまったという説もある。ここは、湯川博光の「信長謀殺」の説明を取り上げて置く。

 信長が描く天下は朝廷を中心とする伝統的な神道による絶対の為政者が支配する政道ではない。これまで神道が支配してきた日本国の政治制度でなく、武家が君臨する専制政治であるべきであると考える。神道は無論のこと、役に立たぬ国家守護仏教は排除する。在来の日本の宗教・神道と国家仏教ともに有害であり無力であると信じているところがある。日本国の在来の宗教では、押し寄せてくる外国の勢力に対抗できないと危惧する。「無神論者」といわれる所以というか「現実主義者」と言ってもよい専制君主となった信長であった。

 信長は奈良春日大社の勧進者吉田神社の神主吉田兼和(かねかず)に、イエズス会の巡察師アレサンドロ・ワリニャーノとの宗論を戦わせるように指示を与えたが、世渡り上手の兼和に回避されてしまった。貞観元年(859)に平安都の朝廷に密着するように建立された藤原氏の古い氏社春日神社(吉田神社)としては、伝来の神道の威信を傷つけられてはたまったものでない。吉田兼和は近衛前久らと深くかかわって、正親町天皇を守る画策を続けていた。

 キリスト教の布教を利用しながら世界を支配しつつあるポルトガル・イスパニアを常に意識している専制者信長は、天長制度に寄りかかり政治を考える公家や武家たちに、信長の考えを理解してもらうことは無理であった。武田征伐に付き添った太政大臣近衛前久や、遠征に加わった明智光秀らの天長中心の政治を発想する人たちの言葉に対して、信長はいつも苛立ちを感じ、不快感を顕にした。諏訪の法華時における武田遠征勝利の祝宴の中で、明智光秀が信長から暴行を受け、縁側からけり落とされた事件は、近衛前久にも向けられた信長の爆発であった。

 天道を支配して全国を動かす陰陽・暦の土御門家の仕事まで取り上げ、冠位を下げて家格を貶めるなど朝廷制度の破壊に繋がりかねない恐ろしい政治をやり遂げようとする信長。太陰暦と鎮護国の札を配り歩く高野聖を見つけ次第殺害することを命じていた信長の法度は、誰にも理解できない政治改革の一つであった。荒木村重の残党をかくまったからとの信長の釈明は本心を説明するものではない。護国真言宗は無駄な宗派と考えていたはずである。

 太政大臣近衛前久と中納言勧修寺豊晴らが、いまや朝廷の敵となった信長の暗殺陰謀の謀事をしたと、作家安部龍太郎は「信長燃ゆ」で述べている。本能寺の変は明智光秀が近衛前久ら公家たちから持ちかけられた話が伏線としてあるとみてよいと思う。

 天正10年(1582)3月4日、織田信長は安土城を出て武田征伐に遠征した。織田信忠を総指揮とする織田軍先遣隊は家康軍の協力を受けて、野火が走るがごとく、木曽・信濃・甲斐の国を犯していった。信長は太政大臣近衛前久を伴って、そして勧修寺豊晴の妹勾当内侍(正親町天皇の使者・東宮女官長橋の局)をつれて、武田領に入っていった。先遣の信忠は武田四郎勝頼を追いつめて、3月6日、甲府大月で勝頼の首を挙げた。信長は信玄の墓がある甲府塩川の恵林寺に詰めかけて、寺を守る寺僧と快川和尚を山門に集めて焼き殺すという不作法をした。

 信長は近衛前久や光秀の哀訴も聞かぬ狂気の状態にあった。光秀は快川和尚と同じ土岐氏の一族である。六角承禎嫡男義治が逃げ込んだ恵林寺に対して信長の使いとして光秀は六角氏の引渡しを求めた。だが、和尚は武田家菩提寺としての立場を主張して引かなかった信玄公夫人三条氏の縁に繋がる六角氏を守る快川和尚に理があった。信長は目の前で山門に集めた僧侶を焼き殺した。前久も光秀もこの時、信長に対して嫌悪を覚えたにちがいない。前久は信長の暴虐を目の当たりにして、信長の前から姿を消した。

 武田領を得た信長は、武田侵攻のきっかけを作った木曽義昌に本知二郡に新たに安曇・筑摩を加えて与えた。徳川家康には駿河一国を認めた。家臣滝川一益には上野国と佐久・小懸郡、仙石久秀に甲州、信濃は森長可に預けた。領土処置を終わり、ゆるゆると富士山南麓を遊覧しながら安土に凱旋した。