3・本能寺の変

 織田信忠が信濃・甲斐に攻め入った天正10年初春、協力を惜しまなかった徳川家康に対して、信長と信忠はこれを慰労せんと、完成してまもない安土城に接待役明智光秀を置いて饗応を尽くした。天正10年5月のことである。安土城での饗応に引き続き、信長は家康を堺に招待、馬廻り役、長谷川秀一を案内役として随行させた。家康は織田信忠とともに京へ移動し、京本圀寺を経て堺に入ることにしていた。6月2日。家康と穴山梅雪は長谷川秀一とともに、堺への移動中に変事を知った。

 一方、家康を供応した織田信忠は軍勢二千を率いて家康と一緒に洛中に入り、二条御所近くの室町薬師町の妙覚寺とその周辺にとどまった。信忠手勢は五百ばかりである。父信長に従って中国路に赴く織田軍団の京都駐在であった。

 信長は備中戦線の秀吉が待つ播磨に向かうために、信忠の後を追って京に入った。5月29日、信長単身で安土から京都、本能寺に入っていた。6月1日、同寺で茶会を催した。公家集、茶道家たちを広く集めて、信長が権力にまかせて蒐集した茶器を公開した。織田親子が中国路に赴く前に、天下の中心京都を完全に支配していること、信長に敵対する権力を駆逐しつつあることを世に示す行事であった。宴の後、本因坊の囲碁対局を楽しむ余裕があった。余裕というよりも油断があった。この時、丹波の明智光秀の軍勢が姫路方面に出るために丹波路を南下していた。

 老いの坂から、突然、京への道を選んだ軍勢は本能寺を襲うことを知らされた。6月2日未明、明智軍は信長がいる本能寺と二条御所とを囲んだ。本能寺には少数の馬廻りしか配置しておらず、光秀勢は易々と境内に侵入できたので、信長はわずかの手勢で抵抗して、火を放ち自ら生害した。信忠は信長救出をあきらめ二条御所に入り光秀軍と戦った。明智軍の囲みを破ることができないのでこれも自ら生害した。

 火中の信長は遺体も残らぬ無残な終末を迎えた。信長の首も遺骸も残らない不思議が後日の波乱を呼んだ。諸説のうち、本能寺と隣接する地下道がしつらえてあったので、信長の首は黒人の弥助が拾って地下道に隠れたとする説がある。だが、首は出てこない。

 今ひとつ秘史がテレビ朝日の番組でレポートされている。原志摩守宗安が本因坊算砂「日海上人」から指示されて、信長の首を駿河国富士宮芝川の「西山本門寺」に持ち込んだというもの。同寺に信長の首塚があり、柊(ひいらぎ)の大木の根本にひっそりと祀られている。柊は二代目という。西山本門司の十八代「日順上人」は原志摩守宗安の子息で、同寺の過去帳に信長と日海上人の法号を書き込み、偉人の供養を続けたという。宗安の父原胤重、兄原孫八郎も本能寺で殉じており、宗安が父と兄の遺体の一部を信長の首と一緒に西山本門司に納めたということである。将に秘史である。

 本能寺の変が起こる前、信長は家康供応役を終えたばかりの明智光秀に非情な指示を与えた。丹波亀山城から、中国山陰に発進して吉川元春と毛利勢を追い詰め、織田領を拡大せよというのである。明智光秀は四国外交から外されたうえに、毛利を攻める秀吉の側面支援にまわる辛い役目を信長から仰せつかったのだった。

 家臣が働いてもはたらいても、信長は満足の気持ちをあらわすことがなかった。明智光秀が信長を殺すと決意を固めるには、相当の理由があった。光秀は信長が家臣の立場を一顧だにせぬ冷酷な取り扱いを続けてきたことに憤慨し、神を恐れず、朝廷を我意のまま操ろうとする増上慢の信長に心から不信を抱いていた。

 ここで、話を転じて光秀が本能寺事件を引き起こした原因を探ることにする。唐突に思えるが、足利義輝将軍の頃に飛ぶ。幕府の奉公衆に石谷光政(いしかみみつまさ)という土岐氏がいた。同じ土岐氏に斉藤利賢という奉行衆がいた。この斉藤は斉藤氏の本流であり、新興の斉藤道三と異なる家柄であった。二人は幕臣として義輝に仕えた。そして、斉藤利賢夫人(蜷川親順の女)が再婚した相手が石谷光政であった。嫡男斉藤親辰(ちかとし)を光政の女の婿として連れていったかたちである。石谷親辰は養父光政とともに将軍義輝に仕えていた。斉藤家は次男斉藤利三(としみつ)が家督を継いだ。利三ははじめ稲葉一鉄(良通)に仕えていたが、一鉄とそりがあわず、稲葉を離れて、斉藤家と同じ土岐氏の明智光秀に仕えた。一鉄の訴えで、光秀は信長から利三を返すよう折檻を受けたが、光秀が意思を通したので信長があきらめた話が伝わっている。利三の継室が稲葉一鉄の女(安)である。利三との間に丹波黒井城で生まれた「お福」がいた。小早川秀秋軍の重臣だった斉藤生成を夫としたお福は関が原合戦の後、失業した夫を残して徳川家の竹千代(後の家光)乳母として徳川家に入り込み、老中に優る権勢を誇った。

 ところで、石谷光政の女の一人が長宗我部元親に嫁いでいた。嫁同士が姉妹であるから、石谷親辰と元親とは義兄弟ということである。四国の長宗我部氏が、何ゆえに美濃の土岐氏と結びついていたのか、これは長宗我部氏の政略によるものである。将軍家に仕える幕臣美濃土岐氏と結びつくことで幕府につながりを求める地方豪族長宗我部氏の長期政略があったのである。石谷光政、明智光秀、斉藤利三、長宗我部元親との間に管領土岐氏の姻戚関係が出来ていたのである。

 信長はこれまで、元親に「四国は切り取り次第」と認めていたのに天正9年、「土佐と阿波半国しか認めない」と言い出した。明智光秀は信長の変心を知り、家臣石谷光政宛てにその旨を伝えさせた。その文書が石谷家の古文書に残っていた。平成26年6月、毎日新聞にその古文書が発表された。これが光秀の本能寺事件の裏面紙となると考えられている。天正10年1月11日付、斉藤利三の文書「元親に使者を派遣してほしい。空然殿も信長の朱印に従ってほしい」。空然とは石谷光政のことである。同年5月21日付、元親の利三宛て文書が空然の手元に残っていた。「阿波国の一部から撤退した。信長殿が甲州征伐から帰陣したら、指示に従いたい」と、元親は信長に対して、態度を軟化させていた。この時期は光秀にとって家康を安土山に準備で大童であった。

 甲斐国の武田一族を滅ぼしてから2月あまりしか経っていない、5月7日、信長は長宗我部元親を制圧するために、神戸信孝と丹羽長秀に四国遠征軍の編成命令を下していた。制圧の後に、信孝を三好氏として四国を支配するというのである。

 得意の絶頂期にあった信長。長宗我部元親が信長の朱印を受ける意思を示したのに、また、光秀の仲裁にも関わらず、意見も変えない非常な信長だった。光秀は四国の元親を守ることにした。これが光秀の決起の真相である。計画を打ち明けられた斉藤利三は無謀とも思える反逆に最初は反対したが、結局光秀に従った。本能寺の変は起こるべくして起こった。

 天正10年3月の武田攻略のとき、織田長益は信忠に従い木曽口から、信濃に入り働きをした。同年5月、織田信忠軍として、京都に入っていた。本能寺の変のとき、二条御所にいた織田長益は信忠を二条館に置いたまま館を脱出して、安土に逃げ帰り、さらに岐阜へ逃亡した。信長と13歳も年齢が離れ、武術が苦手な長益は、信長一族を守る気概に欠けていた。知多半島領主「大草城」の長益は信忠に忠節を尽くさなかった。

 本能寺の変後、長益は織田信雄の旗下に入り、小牧・長久手の戦いに参加、家康軍を援けた。秀吉方の滝川一益の蟹江城開城を仲裁、戦後、家康との講和折衝役となった。その後、秀吉の側室となった茶々を庇護する御伽衆として、関が原合戦直前まで、織田一門の立場をとおした。徳川家康とのつながりが深かったので、関が原合戦の東軍に属し、江戸の有楽が原に屋敷を構えた。織田家の数少ない血脈となった。

 本能寺の変後の安土城の運命について書き置くことにする。変事の知らせは6月4日、安土に着いた。城代は蒲生賢秀である。豪胆だが沈着な日野城主賢秀は土田御前、信長側室たちならびに信長の遺児たちと共に日野城に退去した。安土城の金子には手を付けず、次の安土城を受け取る天下人に城ごと渡すという潔い態度であった。日野城には蒲生氏郷と信長の二女「冬」が城を護っていた。

 明智軍は5日朝、安土城に現れた。光秀は安土に4日ほど滞在、京都に戻った。明智軍は14日まで城に滞在したが、政権を樹立するために都に戻らなければならなかった。安土滞在に光秀を訪ねて、吉田神社の吉田兼和が公家衆とし打ち合わせに現れたが、光秀はすぐさま京へ戻った。9日、誠仁親王、太政大臣近衛前久、中納言勧修寺豊晴らと天朝親政の準備をした。13日に光秀軍は山崎の天王山で秀吉軍と激突。背走した光秀は、京伏見小栗栖で夜盗に襲われ落命、天朝側の王政復古の夢は消えた。15日に畠山信雄軍が安土に出てきた。そして安土天主閣と本城が燃えた。火つけは少なくとも明智軍ではない。