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4.秀吉 清洲会議を牛耳る
清洲会議のあと、柴田勝家を頼る織田信孝は、浅井未亡人「市」を説得して、勝家の正室に推した。勝家は信長に対する忠誠心が飛びぬけて高い武将であった。その剛勇ぶりは織田軍団で出色のものであった。アイヌ系のひげもじゃ武者に男の魅力を感じる者が多かった。見掛けによらず根は優しい大男であった。だが、この猛勇はこのとき、すでに年齢61の高齢であった。浅井長政の未亡人「お市」は、36歳で勝家と結ばれた。信孝の居城岐阜城でふたりの祝言が執り行われ、秋に福井へ連れ立って帰って行った。勝家は「お市」の三人の娘、茶々、初、督を伴っていた。14〜15歳の母似の美しい姫御たちであった。お市の姫たちは、福井での義父との暮らしを半年しか送れなかった。福井に閉じ込められた悲運の母子を、勝家は不憫に思って、北の庄陥落のとき城脱出をすすめた。10年前の小谷城脱出の再現と見られたが、お市の方は勝家とともに死ぬことを決めた。お市は秀吉に再び膝を屈することはしなかった。
生まれて間もない姫、督を抱えて、小谷城を離れるとき、お市が夫浅井長政と交わした約束「浅井(あざい)の子孫を残す」を、お市はこの時のことは忘れてはいなかった。勝家が秀吉に話をつけて、お市と姫たちは城を離れることになったのだが、、お市は娘たちだけを秀吉軍に渡した。自分は勝家の側に残り死ぬことを決意した。どのような心境で、死を選んだのか、お市の心中は現在の私たちの胸を打つ。勝家の方は、主人の信長への衷心と織田家妹姫に対する愛情を示すことで心中は定まっていた。勝家とお市の姿は燃える城の中で消えた。お市の遺児、茶々・初・督に付き添った乳母、お阿佐に三姉妹のこれからの運命を語ってもらうことになる。
本能寺の変のあと、天正10年の冬が来て越前が雪に閉じ込められたころ、やがて丹羽長秀は安土・佐和山に進出、長浜城の柴田勝豊(勝家養子)は完全に孤立した。柴田勝家は柴田軍団の与力前田利家・金森長近・不破光冶に長浜城保証の交渉をさせた。三将は摂津の宝寺(山崎城)に出かけていって秀吉と会談した。ここらが勝家の政治的手腕が秀吉に劣るところである。勝家自身が交渉すべき大事な場面なのである。講和は成ったが、秀吉はすぐに約束を破った。初め、秀吉は長浜城を襲い(柴田勝豊)を降伏させた。また、12月中旬、岐阜大垣城を攻めて、勝家派の織田信孝を岐阜城に孤立させた。ここでも秀吉は織田信長の武将森長可(ながよし)を反逆せしめて、信孝の戦意を失わせている。この時、秀吉は信孝のもとにいた三法師を自分の手の内に奪い取った。信雄に預けて、丹羽長秀の手により一部復旧した安土城に住まわせるのである。そして、信孝の生母(坂氏)と娘を人質にとり、後に殺してしまう。信長側室を殺す無軌道な秀吉に皆驚いた。
柴田勝家を越前に封じ込めておいたときの秀吉は大忙しであった。岐阜城の織田信孝と長島城の滝川一益ら勝家派を続けざまに相手した。まず、長浜城の柴田勝豊を降ろした勢いで、秀吉はすかさず西美濃へ進軍、中立の立場を取ろうとした西美濃(清水城)の稲葉一鉄から人質をとり、岐阜城圧迫の布石を置いた。
秀吉は次に、東美濃の森長可に手を伸ばした。織田信長に近習として森蘭丸ら弟三人を送り込んでいた兼山(かねやま)城の森長可は若年ながら猛将であった。天正10年2月、木曽口から武田領に侵入、信州と上野国を制圧する武功を挙げて、織田信長から信州川四郡二十万石と海津城を与えられた。そして、信濃国統治と上杉景勝領に攻め入る役目を仰せつかった。本能寺の変のとき、ちょうど春日山城の上杉攻めで進軍していた森長可は越後から苦難の退避行をして、東美濃(兼山城)に帰りついた。そして、長可は動揺している東美濃の諸城を統合していた。秀吉はこのはしっこい猛将と提携することに成功した。
こうして、秀吉は美濃国の東からと西から岐阜城の信孝を取り囲む情勢を作り上げていた。織田信孝は長浜城の柴田勝豊を援けるために旗揚げしたが、参集する武将が少なく、すぐさま旗を降ろさざるを得なかった。こうして天正11年12月上旬、信孝は秀吉に降伏、岐阜に預かっていた三法師を秀吉に渡した。三法師は安土城に送られてしまった。
ここで、どうしても滝川一益について触れないわけにはいかない。天正10年6月のはじめ、一益は天目山麓で武田勝頼を討ち取った功績で、信長から新しい支配地関東の統治を命じられていた。上野「厩橋城」を本拠地として、信濃二国をふくめて旧武田領と北条領の一部を支配していた。本能寺の変の知らせに、すぐさま決起した北条氏邦(鉢形城主)、北条氏直(小田原城主)や武田旧臣藤田信吉らをいなしながら、一益は「伊勢長島城」にやっと帰りついた。だが、「清洲会議」に参加することを許されなかった。柴田勝家派の滝川一益は天正11年正月、越前の柴田勝家を助けるために、岐阜にいる織田信孝と連動して、秀吉側についた北伊勢、伊賀の諸城に軍を出した。そして賤ケ岳戦に出兵した。
一方、秀吉は天正11年正月から、北伊勢で滝川一益と全面的に対決を始めていた。北伊勢で諸将を糾合した一益は、同年2月の賤ケ岳の戦いに柴田軍の戦力として働いた。これに対して、丹羽長秀、織田信雄の力を借りて賤ケ岳の戦いで決定的勝利を得た秀吉は、嵩にかかって一益の締め上げに掛かった。
それから、天正11年2月、秀吉は強固な勝家派、滝川一益の伊勢亀山城を攻めた。柴田勝家はたまらず、3月に深雪を踏破して、北国街道を南下した。だが、賤ケ岳戦では丹羽長秀が余呉湖に突出してきて、北国軍を打ち崩した。この時、前田利家と金森長近が戦線離脱をして、勝家軍の背走のきっかけをつくった。勝家は福井に敗け帰ることになった。先に述べたように、前田利家らは秀吉との交渉のときに勝家から引きはがされたらしい。「人たらしの名人」「軍略の天才」の秀吉は存分に政治力を発揮して、勝家派をたたき潰した。
秀吉の政治手腕は「清洲会議」のあと、このようにして織田一族に向けて遺憾なく発揮された。信長の甥、津田信澄は丹羽長秀と織田信孝に殺させたし、あとは信長の子息とも思えぬ愚鈍な織田信雄に信孝と黒白をつけさせればいいのである。信雄(のぶかつ)はやすやすとこの手に乗った。柴田勝家が3月に北国街道に出てきたとき、信孝が再び美濃で兵を挙げたので、秀吉は信雄に戦いをさせた。信孝は岐阜城を追われ、知多半島に逃れたが、秀吉から自刃を要求された。秀吉に預けていた生母と娘も殺された。
ここで森l長可を紹介する時間をいただく。長可は弱冠13歳のとき、父森可成(よしなり)が浅井・朝倉軍との対戦で死亡したので、元亀元年に家督を引き継ぎ、岐阜兼山(かなやま)を領知する兼山城の城主となった。弟の成利(乱丸)、長利(道丸)、長氏を本能寺の変で一挙に失った。この時、長可は信州川中島の海津城を預かっていて、ちょうど越中上杉景勝の居城春日山城を襲う作戦を展開中だった。信長の訃報が届いてからのち、それから岐阜金山城に辿りつくまで、長可は非常に危険な目に遭い続けた。秀吉が信孝を包囲したとき、秀吉方に付いた。
信孝を殺して、気が上がった畠山信雄は名前を「織田信雄」に復し、織田信長の後継者のつもりであった。だが、後日、秀吉から座っている座布団を引きたくられるような仕打ちで、追放の憂き目に遭うのである。
他方、伊勢上野城の信長の弟、織田信包は、本能寺の変後も信長の弟らしき役目を果たすことができず、秀吉の暗躍を見守るだけであった。福井を脱出した姉、お市の三人の娘たちに救いの手を差し伸べることもできなかった。三姉妹は秀吉の手中にあって、信長の末の弟、織田長益に預けられていたが、やがて浅井長政の姉、京極マリアとその娘京極龍子の庇護を受けるようになっていた。龍子は武田元明に嫁ぎ、夫を秀吉に殺されてから、秀吉の最初の側室になった美貌の寡婦だった。茶々たち三姉妹の従姉にあたるが、幼い姫を庇護する役目はこの浅井家の女性に任された。三姉妹は京都や修復された安土城にいたらしい。織田長益は三姉妹が大阪城に移動して後も、お市の娘たちを終生守る役目を果たしたのだった。 |
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