5.勝家と市 炎の中に消える

 越前国福井の「北の庄城」は未暁から、秀吉軍の本丸攻撃が休みなく続いていた。千人はいたかとみられた柴田勝家軍城兵は天守閣を守る三百ほどの数に減っていた。やがて、九層の美麗な天守閣の入り口の鉄扉は、攻撃軍の太い丸太をぶっつけられて壊れた。石の柱と鉄扉で囲われた建物に軍勢が詰めかけ、柴田勝家はいよいよ最後の時が来たことを覚悟した。最上階に一族の女性を集め、「者どもわが死に作法を見よ」と音声を張り上げ、お市の方をはじめ12人の妾女たちとすべての侍女を一人ずつ引き寄せて、脇差で刺し殺した。二の丸、三の丸が奪われてしまった前夜、別れの宴を過ごし覚悟を決めていた柴田一族ではあったが、無残で哀れな最後となってしまった。勝家は脇差で下腹を刺し刃を切り下げて茶人中村文荷斎に首を討たせた。

 文荷斎は用意した火薬にすぐさま火をつけ城に火を放って火中に姿を消した。八十余人の武将と近臣は互いに刺し違え、自裁して天守閣とともに消えた。石の鬼瓦と石葺き屋根の天守閣を持つこの美しい城は安土城に劣らぬ重厚な建築美に輝いていたが、勝家・お市とともに燃えて灰となった。前年、北の庄を訪れたルイス・フロイスが褒めた美しい天守閣は火炎の中に消えて、壮美を極めた城の建築物は石瓦と焼け残った建屋と石垣のほかは何も残らなかった。

 この悲劇は本能寺の変で「織田信長」、横死から、10ヶ月半ほどたった天正11年(1583)4月24日のことであった。北の庄城の末期の様子は、たった一人の勝家に外された老女からもたらされた。とても悲しい話である。

 これまで織田家の首席家老であった柴田勝家は織田軍団統率者の後任争いに、いま、羽柴秀吉に敗れた。本能寺の変を奇禍として、秀吉は信長弑逆の賊「明智光秀」を山崎の合戦(6月13日)で打ち破り、その勢いでとうとう北の庄城を落として、織田軍団の筆頭に躍り出たのだった。

 その10ヵ月前、天正10年(1582)6月24日のこと。織田軍団の「清洲会議」において、次男織田信雄(のぶかつ)、三男織田信孝は家督相続をめぐり激しい対立をしていたので、柴田勝家が推挙する織田信孝案は宿老の賛同が得られず、嫡男織田信忠の遺児三法師(後の織田信秀)を推挙する秀吉案でまとまった。信孝に近い丹羽長秀がなぜ勝家の提案に賛意を示さなかったのか、今になっては不明である。秀吉はちゃっかりと嫡孫の後見人に納まり、そして信長の遺領のうち河内・丹波・山城を横領した。備前・備後・美作と播磨・摂津を合わせた広域な領国を支配、京の都を管轄できる実質的な信長の後継者になっていた。織田信雄は織田家の本貫尾張国を継承、信孝は美濃国を支配することになった。難波平野(ひらの)の代官、岸和田城の蜂屋頼隆が敦賀五万石と金ヶ崎城をj引き受けた。

 柴田勝家は東近江の三郡と秀吉の居城「長浜城」を強引に得ただけであった。近江の北側敦賀は若狭・加賀・近江からの街道が交叉する交通の要所であるので、越前を支配している勝家にとっては、是非とも確保しなければならぬ地域であった。それに、丹羽長秀が信長から支配をされていた若狭国は「清洲会議」ではそのまま丹羽長秀のものとされ、北国街道を扼す敦賀が手に入らぬ勝家の心は穏やかではなかったろう。

 秀吉は織田軍団の長老のひとり丹羽長秀を籠絡していた。秀吉はこれまで丹羽高吉(仙丸・長秀の子)を自分の弟羽柴秀長の養子に貰い受けるなど、丹羽長秀に接近する策を講じていた。丹羽長秀の室は信長の庶兄(織田信広)の娘であり、長秀は信長の信頼が厚い家臣であった。天正4年から縄張りを始めて翌年に完成をみた「安土城」築城の功績に対して、信長は寵臣に佐和山城と若狭国を与えた。家臣に対して、めったなことで茶道をたしなむことを許さなかった信長は長秀に茶器まで与えた。また、信長は天正9年(1584)2月、正親町天皇と東宮誠仁親王の天覧の馬揃えを挙行したとき、「友であり、兄弟である」と思っていた長秀に一番入場の栄誉を与えていた。

 南北朝時代の若狭と丹後は守護代武田氏の歴史的版図であった。だが、第九代武田元明のころは源氏の威力は無く、父武田義統(よしすみ)が亡くなると、家臣逸見昌経の謀反があり武田家は衰弱していた。武田元明は越前守護朝倉氏の一乗谷館に人質として幼年時代を過ごしている。これが浅井家の庇護下にあった武田氏の姿であった。

 そして、信長の近江進出によって、浅井長政の配下としてようやく元明は弱年ながら活躍を見せる。浅井長政亡き後、天正5年には、丹羽長秀が信長の指示で若狭国を領有したので、元明はこれに従った。天正10年、明智光秀が本能寺の変後に近江を平定し支配しようとしたのだが、武田元明は明智光秀側に付いて佐和山城を奪取した。これに対して、丹羽長秀はすかざず城を奪回、元明を近江国海津の法雲寺に追い詰めて自害を強いた。武田の本貫、丹後国加佐郡は長岡藤孝(細川幽斎)に預けられた。

 近江長浜城は冬季には越前から孤立した状態になるので、羽柴秀吉の勝家に対する軍事的優位は決定的になった。柴田勝家の領国越前は雪が深くなるとき、北国街道から北近江に抜ける木之本・余呉の街道筋で封じ込められた形になる。佐和山城主丹羽長秀の近江支配は柴田勝家封じ込めのすぐれた戦略であった。

 長浜城はこれまで秀吉の居城であった。秀吉はすぐさま、新しい長浜城主柴田勝豊を脅しあげて、柴田勝家から切り離す策略をめぐらした。秀吉の家臣「大谷吉継」が余呉の出身なので調略を吉継にまかせた。秀吉は大軍を佐和山に送り込み、ついで高山右近・中川清兵衛二千の兵を長浜に進駐させた。こうして勝豊を包囲するかたちにして降伏させた。天正10年12月2日のことである。岐阜城の織田信孝があわてて勝豊を援けるために決起したが間に合わなかった。清洲会議から、6ヵ月しか経っていなしい。

 付け加えていえば、病弱な28歳の柴田勝豊は、長浜城主の地位を許されたので、義父柴田勝家を非難する弾劾状を家臣の前で読み上げたという。哀れさが先立つ。後の賤ケ岳の戦いに老臣徳永寿昌(ながまさ)を秀吉側に出した。勝豊は北の庄城の勝家終焉の8日前に京都で吐血病死した。更に付け加えると、この近江伊庭庄出身の徳永寿昌は秀吉に仕え、九州遠征、小田原征伐で戦塵を被り戦績をかさねた。秀吉亡き後は徳川家康の旗本として南美濃「高須城」で存在感を示した。

 天正11年春2月、ようやく越前から出てきた柴田軍団は近江北部で秀吉軍と対峙していたが、前田利家、佐々成政、金森長近らを寄騎とする越中・越前軍は秀吉軍の半数にも及ばぬ勢力であった。賤ケ岳の戦いで秀吉の戦略にはまった柴田盛政軍が崩れたとき、前田利家と金森長近は戦いもせず戦場を離脱してしまった。天正10年秋、柴田勝家の使者として山崎「宝寺砦」に秀吉を訪ねた利家・長近はこの時、秀吉と密約を交わしたのかもしれない。

 利家の戦線離脱を見た柴田勝家本陣に動揺が走り、軍団は一挙に崩れた。丹羽長秀が加わった秀吉軍に追い立てられ、勝家は北国街道を逃げ帰ることになった。北の庄城落城の悲劇はこうして生まれたのだった。

 秀吉は賤ケ岳の戦いと北の庄城攻略の後、勝家の支配地越前国と加賀国のうち能美・江沼の二群とをこの丹羽長秀に渡した。長秀の領国は若狭国と合わせて都合百二十二万石になった。これでは、秀吉に対して異を唱えようがなかった。勝家を裏切った前田利家は加賀二群を貰って越中と合わせて三十万石の領主となった。金森長近は剃髪して、秀吉に侘びを入れたので、信長から宛がわれた越前大野の領地を失わずに済んだ。

 賤ケ岳の戦いに敗れた後、滝川一益は天正11年5月、伊勢長島城に一ヶ月保護籠城して信雄と秀吉とに対抗したが、ついに降伏する羽目となり、領地はすべて取り上げられた。一益は剃髪し、越前の丹羽長秀を頼って越前に去った。長島城は織田信雄の居城となった。

 岐阜城主織田信孝も賤ケ岳戦の時、柴田勝家を援けるべく、二度目の旗揚げをしたが、秀吉軍の機動力のすごさに、あえなく降参。信孝は降服の印として母親板氏と娘を人質として秀吉に差し出した。秀吉は信孝の降参後の処置について、長秀に口を差し挟む機会を与えなかった。

 柴田勝家が消えた後の織田信孝は立場がもろくなった。秀吉は信孝と跡目争いをしている伊勢・尾張の織田信雄に信孝を攻撃させた。美濃国人からは少数しか助力を得られなかった信孝は天正11年4月、岐阜城に孤立、織田信雄に捉えられ、尾張国知多郡内海の野間に蟄居させられた。織田信雄を陰で糸を引く秀吉は同年4月29日、大御堂寺で腹を切らせた。そして、信孝の母(信長の側室板氏)と娘まで殺した。これでは主殺しと同じである。板氏は伊勢の国関氏一族鹿伏兎氏出身だが、秀吉は関氏が信孝支援に動いたことに報復したつもりであったのだろう。信孝に対する秀吉の処置はとてもほめられたものでない。

 こうして、織田信孝亡き岐阜城は信雄のものとなり、岐阜大垣城は森長可の岳父池田恒興に引き渡された。織田家の老臣池田恒興は摂津、大坂地方を領地する武将であるが、森長可とともに織田信雄配下になったわけである。

 山崎合戦のあと、秀吉は山崎の宝寺砦に居座り、信長の遺産の掌握に努め、信長の一族や家老を取り込むのに余念がなかった。安土城と城下の信長の財宝と武器は抜け目なく押さえて、次々と織田信長の一族を籠絡していった。信孝が預かっていた三法師を安土の信雄に渡したことは先に述べた。

 話を少々転ずる。小谷城から脱出したお市と娘三人を預かった伊勢上野城の織田信包(のぶかね)は、此度は北の庄城を抜け出した三人娘を引き受けることもならず、秀吉の思うままに安土城に送られていくお市の子を見守るだけであった。信長の弟である信包は信長遺産の相続から外れた存在でしかなかった。ただ、秀吉から見た信包は安心できる存在であった。

 羽柴秀吉は「お市」が残した浅井長政の三人娘をいつのまにか、織田信雄の手から取り上げていた。浅井の血を同じくする京極龍子(武田元明の室)や信長の末弟、織田長益に手伝わせて、まず、末娘小督(おごう)を「お市」の姉「お犬」の嫡男、佐冶九郎一成に嫁がせた。

 武田元明の室は京極家(佐々木家)の美貌の誉れ高い姫君なので、好色な羽柴秀吉は未亡人をすぐさま側室とした。この龍子は秀吉側室として秀吉晩年まで寵愛された女性であった。伏見城時代に松の丸に囲われていたので「松の丸殿」と呼ばれた。母が浅井長政の姉、京極マリアなので、長政の三人娘(茶々、初、小督)の従姉に当たる。秀吉はこの縁を利用して、浅井の娘たちを身近に引き寄せた。秀吉は「茶々」、「初」の二人を伏見城から天正13年新築の「大坂城」へと移り住ませた。