1.朝倉義景と浅井長政の反発

 永禄13年(1570)、年の初めから、信長は朝廷へ祝賀の手続きと献上品を幾度も繰り返して、2月30日入京した。3月1日に参内、同日将軍にも参賀した。4月1日に将軍の新館竣工を祝して能楽を開催。さらに将軍と放鷹、誠仁(もちひと)親王との宴席などを開くとともに、丹波蘆田忠家の領知、但馬守護大名山名昭熙(あきひろ)の生野銀山所領問題などを信長が将軍に替わって処置した。副将軍にと冠位を勧められたが「我が任に非ず」と辞退している。諸大名に「禁中御修理、武家御用、いよいよ天下静謐のため」と号令をかけていたので、皇居の修理に取り掛かった。正親町天皇から薫香を拝領するなど朝廷との関係良好のうち、いよいよ朝倉義景征伐の運びとなった。

 義影にすれば、今うかうかと上洛しては織田信長の風下に立つことになりかねない。かっては管領斯波氏の配下にあった両家ではあるが、朝倉のほうが織田よりも格が上と思っているので腰を上げる気にはならなかった。それに越中加賀惣との争いが続いているので、いくら信長に催促されても、越前を空けて上洛する状況ではなかった。

 片や、徳川家康は信長の要請を受けて上洛してきた。信長はこれで朝廷を援けない朝倉氏に対する討伐の名分を得た。妹婿長政に朝倉誅罰の用意をさせて、元亀元年(1570)4月20日、坂本を出陣、琵琶湖西岸朽木を通って、公然と敦賀の手筒山城に攻め込んだ。4月25日、朝倉勢千三百を討ち取り手筒山城に入城した。城主朝倉景恒は主君朝倉義景の出援を得られず、筆頭重臣朝倉景鏡(かげあきら)の派遣を待ったが、なぜか景鏡は敦賀に入らなかった。景恒は敦賀の孤軍守備の苦境に立たされた。4月26日、敦賀金ヶ崎城は花散るように遭えなく落城した。

 北近江の朝倉領を当然のごとく犯して進撃するあまりの信長の強引さに、浅井長政は信長から離れて、浅井と朝倉との永年の友誼に殉じた。4月28日、長政は滋賀高島郡牧野の湖北・海津港に進出、織田軍の越前侵略の退路を断つを作戦に出た。朝倉領敦賀手筒山を抜き金ヶ崎を落とした後、木芽峠にさしかかっていた織田・徳川軍はあわてて湖北に逃げた。そして、京を目指して退却した。退却に際して、池田正勝軍が丹羽側から信長軍を支援したいたので、信長が京に向かうには大事がなかった。5月朔日、京洛に着いた信長は皇居修築の様子を調べて、5月3日に朝廷に届けた。朝倉征伐の報告のつもりであったろうか。信長は、勅使、山科言継に皇居工事の続行を約束している。

 だが、信長を捉えようとする動きが畿内に激しくなった。南近江を通り、美濃に脱出しようとする信長は包囲網に掛かったような状態にあった。六角義賢の騎馬軍は近江に姿をあらわし、京奪回を計る勢いの三好党が各地で活動、それに国人の一揆勢が暴れた。信長から見て、どうも、背後に本願寺勢が動いていることが疑われてならなかった。本願寺顕如の室「きた」は公家三条家の娘で養父は六角義賢である。これまで、石山本願寺顕如と六角義賢とは繋がりが深い。信長は本願寺宗徒の動きも警戒しなければならなかった。

 信長を京都に追い返した浅井長政は、岐阜と国境に兵を配置し、信長の岐阜帰還を遮った。信長は織田軍団の諸将を南近江中心に、後詰めとして配置した。

 その配置を南近江東側から順に西へと見てみる。まず、観音寺城の東側の近江八幡長光寺城「瓶割城」に柴田勝家、そして近江永原城に佐久間信盛、観世音寺城西側に中川清秀を置いた。柴田勝家は5月中旬から大兵力の六角軍に襲われて籠城していた。5月21日、「野洲河原の戦い」で四百人余を討ち取り辛くも城を護った。武人柴田勝家が出城の時に水瓶を割り、気勢をあげて城を出たと伝承がこの城に残っている。永原城の佐久間軍もこの野州河原の戦いに参戦した。敗勢の六角義賢は甲賀の石部城に引いた。

 野州の西側、瀬田川東側の守山砦の守備を受け持ったのが稲葉良通(よしみち)。良通は野田・福島の戦いを殿軍で撤収してきて、中山道の交通網保持の難しい守山に陣を張った。やはり散発的に一揆勢に襲われたが、首謀者が誰であったか明らかにすることができなかった。こうして、織田軍は近江南の中山道を必死に守り交通要路の確保はできた。

 そして、守山の西側大津は、宇佐山城に籠る森可成(よしなり)の残存部が、中山道山科地区とともに支配していた。とにかく、六角氏の旧領南近江は信長を憎む国衆に自在に荒らされた。信長自身は、南近江長原城に滞泊して、蒲生賢秀の案内で、甲賀から千草峠を越えて北伊勢へ抜け、5月21日、岐阜に戻った。

 美濃と尾張には、織田軍が動員可能な兵が六万ぐらいいた。そのうち、武田信玄の侵入に備えて、半数を残して、信長は半数で軍団を編成、6月21日、再び小谷城に向けて発進した。これで、浅井への復讐を始めることにした。織田軍は小谷山傍の南西「虎御前山」に二万五千が陣取りした。これに徳川家康軍が加わり、「姉川合戦」が始まった。

 元亀元年6月28日、浅井長政の本拠地小谷城近くの野村(姉川)で浅井・朝倉軍二万千と織田・徳川軍三万とが川を挟んで決死の戦いをした。川の水にたくさんの血が流れた。戦死者は千百と八百ほどといわれる。戦勝に喜んだ信長は「首の事は更に校量を知らず候の間、注するに及ばず候。野も田畠も死骸ばかりに候、またことに天下のために大慶これに過ぎず候」、(佐藤雅美「細川玄旨」)と細川藤孝に知らせて、義昭に伝えるように指示した。浅井・朝倉と織田・徳川の両軍が激突した姉川の合戦は徳川家康の奮戦によってようやく勝利した。戦後、織田信長は岐阜に帰った。

 姉川での決戦の後、姉川南岸にある横山城で指揮をしていた三田村国定、野村直隆が織田軍に降った。信長は木下秀吉に横山城への進駐を命じて、小谷城と対峙するとともに、小谷城・佐和山城との間に打ち込む楔としての役目を担わせた。今日でも横山城の頂から見渡すと、ここの戦略上位置の重要さが判る。秀吉は智謀の限りを尽くして、浅井勢の戦力を削ぐ工夫をした。その最大の成果は佐和山城の磯村員昌を浅井長政から謀略で引き剥がしたことである。「員昌が浅井に対して不穏の動きをしている」と偽りの情報を流して、孤立している佐和山への補給を絶たせ、員昌の母を長政に殺させたとされる。その横山城傍に石田村があった。秀吉は領内巡察の時、幼少の小坊主三成を見つけた伝承で有名である。横山城は木下秀吉の出世の地であるし、三成を見出した因縁のある土地でもある。北近江は秀吉の晩年まで深い繋がりが続いた出世の花道であった。

 姉川合戦二ヵ月後の元亀元年8月に、信長は岐阜からあわただしく攝津に出動した。三好長逸らと対戦するため、守口を本拠地として、淀川河口の北岸に布陣、野田城・福島城の三好勢の三好勢と対峙した。このころ、織田軍団の一員として朝倉領に派兵していた攝津奉行「池田勝正」は、内証により、家臣荒木村重に池田城を追われて、情けないことに将軍義昭に救いを求めていた。ほかにも織田軍団の東奔西走が続いたが、反信長の織田包囲網は次第に姿を顕にしてきた。義昭・信長政権の支配は不安定な状態になっていった。

 三好軍が籠る野田城・福島十三(じゅうそう)城の戦いが元亀元年8月末から1ヶ月も続いた。将軍義昭も信長を支援する姿勢を示すために、細川藤賢がいる摂津十三(じゅうそ)中島城に姿を現した。義昭にとって松永久秀と三好衆は兄義輝を殺した許されざる敵である。この時ごろまでは信長と義昭との関係は表面上さほどまで冷え込んではいない。

 三好勢が籠る野田城・福島城は海岸の須賀(スカ)地にあり、城攻めは難しく、城方の雑賀孫一ら雑賀衆の鉄砲守備隊が激しく抵抗した。信長方にも根来・雑賀衆の鉄砲がたくさんあり、戦線は膠着した。謀略戦となり、三好方の細川信良、三好正勝らが寝返った。戦況は次第に織田軍に好転しかけていたが、戦場傍の石山本願寺の門徒が元亀元年(1570)9月12日の夜半、突然織田軍を襲った。法主顕如(けんにょ)は各地の浄土真宗宗徒に呼びかけて、信長に反抗するように檄を飛ばした。これは、顕如の織田信長に対する宣戦布告である。ここから、信長との十年戦争が始まった。各地の一向宗徒宗派の既得権益を無条件で是認する気持ちがない信長に対して不満をもっていた。

 同年9月に、本願寺の法主自ら甲冑を着て野田・福島の戦場に赴いたので、一向宗徒が各地で野火のごとく蜂起した。近江、伊勢、和泉、河内、敦賀、加賀などの宗徒の抵抗に領主らは手を焼くようになった。信長が姉川の戦いで対戦したばかりの浅井・朝倉軍が湖西に現れた。伊賀に引き籠もっていた六角義賢が湖南大津に現れた、森可成ら志賀の織田軍に合流を挑んだ。顕如と朝倉義景と六角義賢との同軸の動きが表面化したのである。これには信長が困った。

 法主顕如は信長が和泉で三好党と戦いを始めた元亀元年8月までは中立を宣言していたのだが、実は陰で朝倉義景と連携をとりながら、三好軍とも手を組んでいたのである。本願寺勢は野田の信長軍に戦いを仕掛けたが、劣勢となりやがて寺にもどった。本願寺勢は1ヵ月ほど経過したところで、正親町天皇の御声がかりで鉾をおさめた。そのあと、信長は湖西にいる朝倉・浅井連合軍が京に迫るのを阻止するために、摂津の戦場を離れて、洛東を通り志賀の宇佐山城に駆けつけた。信長がこの志賀から動けぬこともあって、この時、顕如は信長軍に対して、表面的には摩擦を避ける方針をとった。しかし、顕如は朝倉義景との裏での連動を続けて、足利義昭と織田信長政権を揺さぶる事態を狙っていた。