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2.三好党復活 本願寺勢と信長包囲
三好政権の残存勢力は粘り強く、雑草のように畿内にはびこっていた。元亀元年(1570)8月に信長が再び摂津に出動したのは、三好党の反攻がいよいよあらわになったからで、足利義昭将軍の権威が揺らいでいた。このころ、畿内の守護、国人衆の集合離散が激しかった。将軍義昭と信長とで了解が得られていた摂津国の三守護、池田勝正、伊丹忠親、和田惟孝の領知一職が三好衆と三好党派の国衆から犯される事件が相次いでいた。
たとえば、和田惟政とともに摂津・河内の守護の役目を果たしていた池田勝正は池田家の内証で、元亀元年6月18日に池田城を追われてしまい、同月26日、三好義継に伴われて、将軍義昭に訴えにきた。池田勝正の異腹弟、池田知正の義兄にあたる荒木村重が三好党の差し金で動いた追放劇であった。この頃、信長は浅井攻めに忙しく、摂津の騒動に向かうことが出来ないでいた。
元亀元年9月から表面化した一向宗徒の各地での活動が、信長にとって厄介なことになった。近江ではすぐに火の手があがり、甲賀に引き籠もっていた六角義賢までが動きだしたので、近江織田軍の武将たちは苦戦を強いられた。甲賀から近江に軍勢を出した六角義賢は、近江宇佐山城の信長配下森可成を琵琶湖西岸に襲い、「数百人を射ち落とした」と朝倉義景に伝えている。朝倉・浅井連合軍三万ほどが湖北から湖西に移動を始めた。連合軍は元亀元年9月16日に動き出し、22日に坂本に到着。森軍が頑強に抵抗するので、宇佐山城を攻めながら、大津の松本、馬場を放火、さらに山科へ侵入していった。連合軍は千を超える将兵を失っていたが、宇佐山城の守備隊の損害も大きかった。湖西で激戦が展開している中で、森可成、織田信冶(信長弟)、青地茂綱らが討ち死にした。だが、宇佐山の将兵は寡兵になっても城を放棄しなかった。これが、信長軍の反撃に役立った。
山科から西へひとつ山越えすれば都、その都の政情は混乱した。都に朝倉軍が入っては影響が大きすぎるので、柴田勝家が信長に京へ馬を返すことを進言した。信長は急遽、全部隊に野田城・福島城からの撤退命令を出し、将軍とともに都に還った。そして、山科から近江に入り朝倉軍を追った。朝倉・浅井軍と六角軍は比叡山に撤退して山中に籠った。信長は近江宇佐八幡宮の山手にある宇佐山城に入り、比叡山の連合軍籠城部隊の監視を続けた。近江宇佐八幡宮は宇佐の八幡宮を勧進した天皇家の斎場であり聖域である。叡山の騒動は正親町天皇の御心を悩ませるものであった。
叡山の騒動を見ながら、本願寺上人顕如はさらに武田信玄とのつながりを強めて、武田軍の上洛を待つ態勢を維持していた。顕如と信玄の室は公家三条家の姉妹であり、両者の連携はこれまで長く続いていた。織田信長は武田信玄の尾張・美濃への進軍を食い止める手立ても講じなければならなかった。
元亀元年12月14日、寒さと飢えに苦しむ比叡山の朝倉・浅井軍は正親町天皇と将軍義昭の調停を受け入れた。連合軍は3ケ月振りに越前と湖北に帰還した。六角義賢も伊賀に引き揚げた。ただ、延暦寺と比叡山山門は信長が出す如何なる申し出も拒絶して、反信長の姿勢を変えなかった。見かねた正親町天皇が「殊に山王領先規のごとく相違あるべからずの段云々」と諭旨をくだした。信長はこの諭旨に従った。朝倉義景と浅井長政とも誓紙をとりかわし、信長は12月17日、大雪の中を岐阜に帰りついた。
信長は交渉の中で、山門破壊と僧侶の皆殺しを決意したといわれる。この武人信長は宇佐山城から、琵琶湖全域を見渡し、北側のやや仰ぎ見る高さの比叡山を眺めながら、戦死した宇佐山城主「森可成」の後継者として、明智光秀を城主とすることを決めた。そして、山門を牽制する城を坂本に造ることを決意した。
比叡の山に浅井・朝倉軍が籠城していた頃、近江から離れた和泉国でも政情が不安であった。淀川の東側に宇治川と木津川とが合流する三角地形がある。このあたりは「淀」と呼ばれている。淀城があり、かって三好長慶がこの城を長く使用していた。管領、細川春元が差し出した嫡男、細川信良が幽閉されていたところである。いまは、信長から摂津の勝龍寺城を追われた岩城友通が淀を守備していた。
話は少し横道にそれる。淀の東方向に少しばかり離れたところ木津川北岸に堰堤に牧場がある。そこは平安時代から鳥飼(とりがい)の御牧(みまき)という官家の牛・馬の牧場である。そこの土豪が一揆を起こした。信長が浅井・朝倉と戦を長引かせているのを見て、三好衆が蠢動したのに呼応して、この地域の国衆が御牧城を乗っ取ったのである。勝竜寺城から南方を見れば、「淀」と「御牧」がすぐそばにあるので、細川藤孝は対岸の火事として望遠していることはできなかった。摂津芥川城の和田惟政と力を合わせて御牧城を奪回した。元亀元年の和泉・摂津の世情はこのように不安定であった。
この後も、国衆は木津川傍の北八幡宮がある男山に籠って気勢をあげた。歴代天皇の御霊を守る天皇家の聖域も心荒んだ世人にとって恐れはばかるところではなかった。摂津・河内・和泉・大和の政治世界は混沌としていた。
志賀から岐阜に帰りついた信長に、悲報が届いていた。本願寺顕如の檄に応じた一揆勢が尾張と伊勢に激動をもたらしていた。元亀元年9月の顕如上人の檄は、長島ではこれまでにない門徒宗の決起を引き起こし、また、尾張弥富の服部党石橋義忠や斉藤龍興などの非門徒勢の結束をよびさましていた。11月中旬、小木江(こきえ)城主、織田信興は一揆勢に追い詰められて自害、伊勢桑名城の滝川一益は一揆軍に追われて逃走していた。小木江城は長島の東に位置する。一向宗徒と弥富の国衆服部氏を牽制するために信長が砦のような小さい城を造っていた。木曽川と並行して南に向けて流れる鵜戸川を西防備川とする城であった。弟織田信興にに城塞を守らせていた信長は、弟の無念死を聞き、本願寺宗徒に対する憎しみを燃え上がらせた。
だが、信長の苦境を少しばかり弛める動きも出てきた。元亀2年(1571)2月、佐和山城の浅井方武将磯村員昌(かずまさ)が信長に城を明け渡して退散したのである。佐和山城を守っていた磯村員昌は浅井の家臣の中で勇猛を褒められた武将であった。信長側の指示で、元亀2年正月から横山城に駐留する木下秀吉が浅井封じ込め作戦として、交通遮断を徹底しておこなっていた。北近江への情報と兵力移動をとめる関所の効き目が次第に表れていた。佐和山城は孤立無援の状態となっていた。秀吉は磯村員昌と浅井長政と間の離反を画策して、デマとウソ情報を流していた。「員昌に不穏の動きあり」というのである。浅井長政は、佐和山城への湖上からの補給を止めてしまい、員昌の老母を処刑してしまった。磯村員昌は城を維持する意欲を失い、やむなく佐和山城を信長に渡したのであった。これは大きな作用をした。
同年5月に浅井井規(いのり)が配下の武将と一向宗と5千ほどを率いて横山城の木下秀吉を襲ったが少数の守備兵に追い散らされてしまった。姉川の戦い後の浅井側の戦力に陰りが見えていた。
元亀2年春、信長は岐阜から北近江横山城に赴き、比叡山対策に余念がなかった。将軍もこれに連動して近江高島郡に動座する予定であった。しかし、摂津地域の世情が穏やかでなくなったので、義昭の旅程は延期となった。摂津の池田勢の騒ぎは存外に世情を揺さぶった。後ほど、信長は池田勝正に三好党を抑える役目をもたせて摂津豊中の原田城を預けたのだが、この原田城は後日、荒木村重が信長に叛いて有岡城に籠ったときに、織田軍前線の砦の役目を果たした。
いっぽう、主家池田家を凌ぐ勢いを持った荒き村重は池田知正と組んで、摂津や河内にまで支配地範囲を増やしていった。そのひとつをあげる。摂津茨木の上流の安威川(あいがわ)は大坂平野の北側阿武隈山連山の西端から流れ出ている。そこに小さな安威城がある。近くにある「阿為神社」は中臣藍連の祖雷大臣が祀られており、領内の古墳「三島藍野陵」は継体天皇陵とされている。
城主は「安威三河守勝守」。元亀元年9月のこと、新しく池田城主となった摂津守護池田勝正の勢力討伐を命じられた。勝守はやむなく三好派となった。しかし、もう一人の摂津守護和田惟政から安威城をただちに奪われている。あわただしいことだが、元亀2年8月、白井川原合戦で和田惟政が戦死すると、再び、安威城は勝守のものとなった。元亀元年(天正元年)9月に、明智光秀が知行地安堵状を「安居三河守」宛てに発給している。このころに国衆安威勝守はようやく独立的地位を得ていた。
畿内の三好党は勢いを盛り返した。福島城・野田城を攻撃していた雑賀党は、三好党の雑賀党と一緒になり、反信長の旗色を鮮明にした。翌年の元亀2年8月末に荒木村重は「茨木朝重」の領地を武力で横領した。和田惟政が国境の茨木川・安威川に駆けつけて、白井川原合戦が始まったが、周到に準備し、戦力に勝る池田勢に押し込まれるようにして、和田惟政と茨木朝重は討ち取られてしまった。三好党の勝利であった。元亀元年と2年、三好三人衆は相変わらず蠢動をやめず、一向宗徒も各地で領主らに対する抵抗を止めなかった。 |
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