3.比叡山丸焼き 本願寺決起

 元亀2年の初の畿内は複雑な様相を呈していた。叡山に籠った浅井長政・朝倉義景・六角義賢との和解に際して、織田信長は誓紙交換をようやく済ませていた。信長は誓紙について、遵守の気持ちがないので、相手にも信をおいていなかった。これでは近江の政情が落ち着きを見せることはなかった。志賀から岐阜に帰った信長は切れ目なく戦略を行使していた。

 元亀2年(1571)の岐阜城の正月。前年と同様に、信長は細川藤孝を年賀に招待した。このところ将軍義昭に敬遠されることが多いのに引きかえ、信長の覚え目出度いのに戸惑いながら、細川藤孝は摂津長岡から参勤することにした。宴席で信長は比叡山を焼き滅ぼすことを藤孝らに告げた。朝廷の護山を扼滅ぼすのは天朝側に対するとんでもない悪事である。足利将軍と公家側に近い藤孝に、前もって知らせておくというのである。藤孝ならば理解するだろうと、信長は考えたのであろう。藤孝はそ知らぬふりをしたと記録している。

 今や盟友ともいえる宇佐山城の城代明智光秀は比叡(日吉)神社山門と延暦寺を監視する立場にあるので、将軍衆藤孝はつらい仕事を引き受けている光秀のことを考えるとき、軽々な態度を信長に示すことはできなかった。

 これまでの信長と洛北の比叡山延暦寺との対立は必然的要因があり止むを得ないところがあった。国家宗教の現実的権益を信長は認めようとしないからである。信長は庇護者朝倉義景との間に楔を打ち込み、叡山の琵琶湖対岸の寺領を次々と取り上げ、さらに湖西岸の比叡(日枝)神社の門前町坂本を支配して、近江の商業・交通・宗教活動の拠点の機能を奪い取った。叡山が反信長の方針を次第に強めてきたのは止むを得ない。

 厄介なことに、元亀2年(1571)4月、河内国で阿波三好党と本願寺宗徒が再び決起したので、信長は洛中から一万余の軍勢を率いて、河内に出陣。本願寺と三好党が支配する領域の麦畑を焼き払い、焦土とする作戦に出た。麦刈り前の収穫期に作物を焼いてしまう作戦は拳闘における腹部の打撃のように、次第に相手の戦力を奪うことができる。だが、三好党と河内の本願寺宗徒は粘り強く、信長軍団に反抗を続けた。河内における宗徒の活動は次第に、他国の国衆へ反信長の戦いとして伝わった。

 自ら河内へ出動していた信長は、河内前線部隊の多くを伊勢方面に転身東奔させることにした。本願寺の指揮に従う伊勢長島の制圧に振り向けて攻撃戦を仕掛けることにした。これが、第一次長島惣との戦いである。これは長島軍の手痛い敗戦となった。伊勢長島は水軍の強力な支援があれば、信長軍に対抗できた。三好勢と雑賀衆は陰で伊勢の本願寺勢の武装と海戦を手伝った。伊勢の海衆も長島輪中を支えた。

 少しばかり、信長の伊勢本願寺勢との全面戦争を延べることにする。信長は元亀2年5月12日、五万の兵を信長本陣、尾張衆の三手に分けて、伊勢に向けて進軍した。第一次長島一向一揆の戦いである。前年9月、石山本願寺の顕如が全国の宗徒に、信長と戦う檄をとばしたので、この伊勢長島の輪島中の宗徒がこれにすぐさま応えた。長島輪中の伊藤氏だけが、信長支持であったが、決起した宗徒に追われてしまった。これまでの伊勢長島の輪中は織田信長に対して、どちらかといえば不介入の立場を貫いてきた。だが此の度は違った。顕如の呼びかけに応えて、長島杉江城の願証寺証意を中心にして各輪中が揃って織田勢を攻めた。桑名城の滝川一益(いちます)は城を奪われ、小木江(こきえ)城の弟織田信興は自害に追い込まれた。だから、信長は今度初めて長島勢に正面切って戦いを挑んだ。

 元亀元年秋から起きた長島一揆は、本願寺顕如の指揮に従っているので国衆の戦闘力はいつもよりも強力であった。長島輪中の自衛力は揖斐川、長良川、木曽川の流れと地形に守られて、域外からの侵入に対して、国衆の結束さえ整えば強かった。今度の長島勢は桑名方面から海路を渡ってきた雑賀衆を受け入れ、鉄砲を仕入れて、信長に戦を挑んだ。伊勢の海衆は長島の国衆ひいきである。河内、紀州の水軍とのつながりもあり、長島戦線の防衛力は強かった。
 水軍が弱体な信長軍は戦果を得ることができず、伊勢から退去した。退去のときに長島一揆側の待ち伏せ攻撃を受けて、多大な損害を被った。殿を受け持った美濃衆は大混乱となった。柴田勝家は負傷、勝家に替わり殿を引き受けた美濃衆、氏家卜全は戦死した。第一次長島一向一揆戦は織田軍の完敗であった。信長はやっと岐阜大垣に辿り着き、6月末、岐阜城に帰還した。

 伊勢での対戦に深手を負ったにもかかわらず、信長は年初に誓った叡山を丸焼きにする決心は変えなかった。越前朝倉、北近江浅井を打ち倒すのに障害となる比叡山の勢力を叩きたい織田信長は浅井長政、朝倉義景、六角義賢との誓約を破って、やはり動いた。

 元亀2年(1571)年初に宣言していた通り、信長は比叡山焼き討ちを敢行した。9月に入ってから、坂本に火を放ち、日枝神社を焼き、根本中堂や山王二十一社すべて焼き払った。歴史に残る信長の暴挙である。僧侶はすべて、そして坂本の町から叡山に逃げ込んだ山門の老若男女すべてが撫で斬りにされた。虐殺は三千人を超えたといわれる。虐殺を命ぜられた武士たちは辛かったであろう。織田家新参の家臣明智光秀は忠実に殺戮に手を染めた。真宗宗徒であり天台宗徒ではなかったが、光秀は信長の指示を忠実に守った。でも、罪なき山門衆を殺めるのに心苦しまぬはずはない。悪鬼の行為を命じる信長に対して心が離れることになったであろう。

 もう一人の攻将木下秀吉は法主覚恕法親王を救済し、寺の宝物を持ち出すのを見逃して、湖西の船に乗り込むことを許したといわれる。信長の指示を守らずに、信長から責められることを覚悟して叡山焼き討ちに掛った秀吉の神経の図太さは注目しておきたい。秀吉は豪胆なところがある。後奈良天皇の第二皇子覚恕は甲斐に逃れて武田信玄を頼った。叡山門徒衆や近江衆に残酷な仕打ちをして、しっぺ返しを食うことを極力避けようとした節がみえる。秀吉は先が読める人物である。

 天台座主覚恕法親王は叡山から逃れて、甲斐の武田信玄のもとに匿われた。信玄は法敵信長の非行を憤とった。信長に言わせれば、比叡山の日枝神社と延暦寺は天皇家護寺の役目を果たさず、山門下での腐敗の限りを尽くしているので、山衆、僧兵はもちろん僧侶もすべて殺すべきだという。明智光秀、木下秀吉ふたりに叡山焼き討ちと叡山全域不入の仕置きを強く指示していた。叡山全域の焼き討ちを知った宗門の人たちは、宗敵信長を憎み、怨嗟の声は畿内に次第に大きくなっていった。信長に対抗する新しい勢力が各地で動きをみせた。遠国の武田信玄までが比叡山の保護に乗り出し、朝倉義景に再起の声援を送っていた。

 このところ、比叡山焼き討ち準備に余念がなかった信長は畿内における三好党や国衆、一向宗徒の動きについて、静観する態度であった。たとえば三好党と組んだ摂津の荒木村重がますます勢いを盛大にして、池田領と境を接する国衆、茨木重朝、郡正信の耕作地も荒らしていた。元亀2年8月末、村重は吹田の中川清秀と連合して、稲が実った茨木川、安威川合流地点に二千五百騎で侵入。駆けつけた和田惟政軍と茨木重朝軍合わせて五百騎を押し包んで、和田惟政、茨木重朝、郡正信の三将を殺してしまった。三好党の反信長の勢いは次第に侮れなくなったきた。

 元亀2年8月末、白井河原合戦を終えた村重は強大な兵力で高槻城を包囲して、戦死した和田惟政の城を取り上げる戦いを仕掛けていた。二日二晩にわたり高槻の城下町は燃えた。高槻のキリスト教会を守るルイス・フロイスがロレンツォ了斎を派遣、信長に訴えて、ようやく二人目の仲裁役明智光秀が9月9日、高槻に現れた。これで高槻の戦火は収まった。信長が和田惟政の死去を知らず、手当てが遅れてしまったことにして、村重を花岡城に、中川清秀を茨木城に引き揚げさせた。信長は叡山焼き討ちの準備に忙しく、明智光秀もその役目についているので志賀に戻らねばならず繁多であった。こうしてみると、明智光秀は新参の信長の家臣ながら、かなり信頼されていたことがわかる。信長が重宝に使うだけの人物であった。光秀は叡山焼き討ちの準備もしなければならなかった。

 明智光秀の調停にもかかわらず、惟政の嫡子、和田惟長は後に高槻城から追い出された。荒木村重の指示をうけた高山右近と彼の父が惟長を主として仕えたくないと強く反発したらしい。事情は詳しく調べる必要がある。ともかく、信長が永禄11年に上洛して決めた摂津三守護の体制がここで、壊れてしまったということである。比叡山を焼き滅ぼした織田信長に信を置く国衆は少なくなってしまった。新しい政権の安定はなかなか来なかった。

 翌元亀3年(1572)は大きな台風が幾度も吹いてくるような戦乱の年であった。「武田信玄」上洛の動きを止めるために、さらに、織田軍包囲網を破るために、織田軍は尾張、美濃と伊勢の軍備建て直しが必要であった。比叡山焼き討ちの後処理として、信長は近江の浅井長政封じに工夫をこらしていた。同3年7月、小谷城麓に土手と柵戸を設けて、浅井長政を仕留める準備を施した。

 そして、その準備の仕上げとして、信長は将軍義昭に宛てて、有名になった「条々十七条」を発送した。文書には朝倉勢を駆逐する対戦準備が整ったことを示し、近江の一向宗徒の動きは封じられたので、将軍は悪あがきするなと侮辱的な言葉を連ねて、将軍を挑発した。やはり、浅慮の義昭はこれに乗って怒った。だが、将軍は幕府の中では表立って動くことが難しくなった。