4.信長と義昭の対立

 近江の叡山焼き討ちの蛮行が河内の政情を不安定にすることになった。元亀2年(1571)、三好義継が河内下半国守護の畠山昭高が支配する諸城を攻撃しだした。そして、松永久秀がおかしな動きをするようになっていた。義継の軽挙は久秀の教唆であろう。反信長の姿勢に転じたこの義継の行為は、信長の義昭封じ込めに対して、将軍の係累として、将軍を支持するのは当然である。だが、信長の義弟、畠山昭高を攻めるのは行き過ぎである。はたして、三好党に接近していた畠山家重臣、遊佐信教(ゆさのぶのり)が当主畠山昭高を羽曳野の河内高屋城(たかやじょう)から追放する動きを見せた。信教は父、遊佐長政と同じく強欲で強大な勢力を持つ河内守護代である。畠山家の獅子身中の虫である。和泉・河内・阿波の三好党再進出と連動して、政変を引き起こそうとしている厄介な存在であった。

 畠山昭高は足利将軍の直臣である。織田信長の妹「お犬」を娶っているので、これらを後ろ盾にして、身中の虫を退治したいと動いていた。だが、元亀3年閏1月4日、逆に遊佐信教が昭高暗殺未遂事件を起こした。昭高が信長を奉じて動くことに苛立ちを見せて、遊佐信教は傀儡としては手に余る主君を殺そうというのである。とにかく遊佐信教は粘り強い。将軍義昭と織田信長の対立が表立ってきたところで、隙を見つけて元亀4年6月、畠山昭高を殺害してしまった。昭高は29歳であった。

 信長は怒り、高屋城に取り残された妹を取り返す決心をした。また、兄の畠山高政は遊佐信教を許すことができなかった。遊佐信教に妥協して永禄12年に、家督を弟昭高に譲り、自身は紀伊守護に退いた経緯があるので、高政はすかさず高屋城の遊佐信教を攻撃した。しかし、戦力の差はいかんともしがたく、畠山高政は敗退せざるを得なかった。今や、河内上半国守護と若江城は三好義継のものである。

 信長憎しで心がねじまがった将軍義昭は武田信玄と交信を続けて、信玄の上洛を心待ちにしていた。将軍は播磨、泉州、紀州、奈良の武家を頼み、三好氏と雑賀衆ならびに伊勢とイガの国衆の武力決起を促す御内書を連発していた。

 また、義昭は裏で顕如との連携を強めていた。将軍と本願寺とがあらたに結びついたことが明らかにされたので、信長は将軍を都から追放する決心をした。信長はこの義昭の動きを待っていたのである。

 信長は朝廷や公家方との深い結びつきができたので、足利将軍をもう必要としていなかった。宗教権威をかざして信長に抵抗している本願寺、その本願寺と結びついて信長と戦おうという足利義昭の姿は蟷螂の鎌の滑稽さでしかなかった。その上に因縁ある三好党と組んで、恩人信長の手をさらに焼かせる義昭の節度のなさは所詮、将軍の器でないことを示すものでしかなかった。

 織田信長は将軍義昭を洛中に封じ込めながら、反信長の御教書をせっせと発給する義昭の動きをつぶしていた。信長は第一次長島攻撃のあと、再び戦団の矛先を河内に向けた。義昭に肩入れするために三好義継はまたもや三好党と結びついて河内で勢力を伸ばしている。信長はその三好義継と後ろ盾ての松永久秀と徹底的に追い詰めることにした。

 元亀3年7月に出された信長の「条々十七条」はいわば将軍義昭に対する絶縁状ともいえる。いよいよ信長への敵愾心を強めた将軍はあらゆる人脈を伝って信長追討の御教書を出した。義昭の信玄に対する働きかけが功を奏して、武田軍が同3年9月末から。三部隊に分かれて西上を開始してきた。

 信長が恐れた武田軍の西進がどのようなものであったか、信玄の軌跡のあらすじを纏めておく。第一隊、山県昌景兵五千、信濃諏訪を通り、東三河の長篠城を攻落させて遠江国に現れた。第二部隊、秋山信友兵五千、居城高遠城から発進、東美濃に侵攻、岩村城を包囲して11月初旬に攻略。本軍二万二千うち北条軍二千、10月3日、甲府を出陣。山県隊と同じ経路諏訪から移動、青崩峠から遠江国に侵入。途中、馬場信春隊五千が別働隊として、西の只来城に向かった。信玄は南進、二俣城三方ヶ原に武田軍があらわれた。徳川軍八千、織田軍三千の連合軍が蹴散らされて、織田・徳川軍の打撃は大きかった。鎧袖一触の大惨敗だと表現されている。野戦が上手とされている徳川軍が生涯屈辱とおぼえた野戦の失敗であった。

 ところが、信玄軍は三河野田城に進軍したままそこにとどまって、元亀4年の正月となった。2月10日、信玄は包囲していた三河野田城を陥落させた。上洛に時間をかけすぎている武田軍の進撃について、疑問の声があがりだしたが、武田信玄の動静はなかなか漏れてこなかった。武田軍の軍事統制は見事なものである。織田信長は元亀4年初めも武田対策と戦闘突入の準備を整えなければならなかった。けれども、信玄の上洛が遅れてもっと困ったのは浅井長政のほうであった。信長が、浅井領の春・秋の収穫期に小戦を仕掛けて、収穫ができないようにして浅井領を徹底的に封鎖しているからだった。信玄の上洛をもっとも待ち望んだのは浅井長政である。