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5.足利幕府倒れ 三好党消滅
元亀4年(1573)年初の事。武田信玄が前年末に三河遠征の途上で倒れたことを知った将軍義昭は、相変わらず反信長の体制つくりに躍起となっていた。信長から離れることに賛意を示さぬ細川藤孝に対して、公方は二度目の蟄居を命じた。藤孝はおおっぴらに信長の配下に入ることにした。
細川藤孝と古くから交流があった池田方の荒木村重は「信長に忠節をつくす」と返事をしていた。和田惟政の息、和田惟長は「信長様に従う」といった。片や伊丹大和守親興(伊丹城)は「公方様のほうに就く」と藤孝に返事した。藤孝は和田惟長を呼んで、賀島城の伊丹忠親に会い、伊丹親子の翻意を迫るように指示した。しかし、伊丹側の態度は変わらなかった。このように、将軍の意向を重んじる考えの国衆や武将は結構多かった。まだ、将軍職の権威を重んじる考えの武将は少なからずいた。織田信長を嫌う勢力はたくさんいた。信長は京都お馬揃えで織田軍団の力を見せつけておいた。
それから、将軍は三好義継・松永久秀とも手を結んだ。将軍の御内書に音員を通ずる武将が相当数集まったので、義昭は気を良くして旗揚げした。まず、元亀4年2月に三井寺光浄院の僧暹慶(せんけい)が琵琶湖の南石山と坂本の北方に砦を造った。暹慶の一族は武者であり、暹慶は僧ながら荒い気性の持ち主であったそうだ。だが、この金森衆の騒動は、岐阜から出動した柴田勝家にたちどころに抑え込まれた。
河内の話をしよう。元亀4年4月、淀川と河内国に、信長包囲網に加わる池田正勝(和泉)、十河一行(讃岐)、鈴木孫一(雑賀)があつまり、細川昭元(信良)が守る淀川十三(じゅうそう)の中島城(堀城)と周辺の砦を攻撃した。続いて、三好党に復帰した若江城の三好義継や高屋城で三好派との修好の旗を揚げる遊佐信教、高屋城に迎えられた三好康長らが将軍義昭の使嗾に乗って動いた。河内国全体が騒然たる有様になった。
本願寺も決起した。信長を包囲する三好党とそれに石山本願寺、さらに将軍義昭に従う国衆たちが波紋を広げるように動き出した。この混乱のとき、また、大和の悪党松永久秀が妙な動きを見せていた。悪党はあろうことか、遠国の武田信玄と手を結んでいた。これまでの信長とのいきさつを無視して、松永久秀は三好義継とともに、三好党や三好康長と手を組んで勢力拡大を図っていた。こういった混乱の中、信長に望みを託す畠山昭高が高屋城で遊佐信教に謀殺された。元亀4年6月25日のことである。名家畠山は歴史の舞台から消える運命が近まっていた。7月から元号は「天正」と変わる。
満を持していた信長は元亀4年3月下旬、岐阜から出動した。細川藤孝に宛てた日付3月7日の文書に「さ候へば、諸口の手当て(朝倉と信玄対策)も隙明き候間不図上洛せしめ存分に属す(処置する)べく候」と書き送っている。
信長は今度こそは、将軍家を完膚なきまでに叩き潰すことにした。岐阜を出た信長軍は一万人。3月29日、逢坂山で細川藤孝軍、荒木村重軍と合流、京都三条河原で馬揃え、洛東知恩院に進軍した。
将軍義昭は二条館の周りの堀を深くし、数千の兵で立てこもっていた。4月2日・3日信長は洛外下賀茂から嵯峨野百余ヶ所を焼き払い、4日、二条以北を焼き払った。柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀、荒木村重らが乱暴狼藉をせず、二条城を丸裸にするように丁寧に街を焼いた。戦慣れをしていない義昭は震え上がって、朝廷に縋りつき、4月7日、武田信玄が病に倒れて三河進軍をとめている事情を知っても、義昭は再び信長に対抗するつもりでいた。信長は主上を殺して天下を執る愚を避けて、義昭が身を滅ぼすことを待つことにした。義昭を欺き、大軍を率いて一旦岐阜に帰った。
はたして、和議から4ヵ月経って、義昭は元亀4年7月、本願寺、三好義継と三好党まで取り込み、武田信玄、朝倉義景をたのみ、再び旗揚げした。幕臣三淵大和守藤英(藤孝義兄)に兵二千余人をつけて二条城を守らせ、自身は宇治(槙島城)に三千七百人余で籠った。今回の信長対応は早かった。佐和山城主丹羽長秀に、湖水を走る大型輸送船を建造させていたので、大軍団をびっくりする速さで都に運んだ。信長は強風をものともせず坂本を渡り、7月7日坂本泊まり、4句日入洛し、二条妙覚寺に陣を張った。今回は佐久間信盛、羽柴秀吉が加わった兵力二万という。二条城は即日降伏した。やからの首将三淵藤英だけが翌日まで降参しなかった。
7月18日、巨椋池(おぐらいけ)の難攻不落と義昭が信じる槙島城を、信長は苦も無く落として、将軍を河内若江城の三好義継の元に送り届けた。義継の室は、将軍義昭の妹である。だから、義継は義兄義昭を粗略に扱えず、丁重に堺に送り出した。まだ事情が飲み込めない義昭は、のこのこと堺から都に現れて、安国寺恵瓊の紹介に預かって、羽柴秀吉と信長の外交僧旭山日乗上人に会い、自分の落ち行く先の相談をしたという。足利幕府は滅んでしまったので、義昭が落ちる先はなかった。「毛利は引き受けとうないといっている」「どこなと随意に落ちられよ」「三好義継のところは落城させるので、若江城だけは避けられよ」と秀吉に突き放されて、元将軍は紀州の由良を目指して逃げていった。
ついでに、秀吉の名前について触れておく。義昭が放逐される頃、木下姓から「羽柴」に変えている。秀吉は軍団長として信長に認められたということである。こうして足利将軍は歴史の舞台から消えた。元亀4年が天正元年に変わったのは足利幕府の終わりの意味がある。
この秀吉・義昭会談のすぐあと11月中旬、佐久間信盛を主軍とする織田軍団が三好義継の若江城に襲いかかった。細川藤孝はこの若江城攻撃に参加した。居城を攻められた三好長慶の養子は自害した。若江城の大手門を開いて早々と降参した家老池田丹後らによって義継の首は信長のところまで届けられた。義継の墓は緑の深い堺の寺にある。
また、信長に面倒をかけてきた三好党の岩成友通(ともみち)は元亀4年いや天正元年8月、守城淀城で三淵藤英、細川藤孝に討ち取られた。こちらは槍武者で有名な下津権内(藤孝の家臣)と果敢に組み合って、堀の中に落ち込み討死した。三好三人衆のなかで、この人だけが終わりの場面が判っている。
同じく、三好長逸(ながやす)は摂津越水城を出て摂津堀城(中島城)に入城し立て籠もった。淀川に囲まれまれる砦を頼み、デルタ地帯の軍事有利を生かして、三好の頭領として織田軍を一手に迎え撃つ潔い武人ぶりを示した。織田軍の佐久間信盛と勇猛に戦った長逸は敗戦の中で消息を絶った。討死の姿が確認されておらず、討死したらしいと推定されている。
三好三人衆のもう一人、三好政康(まさやす)は中島城に籠りながら離脱、僧衣を着て三好義継がいる若江城に現れた。ここでも死に場所を得ず、三好長慶の孫、三好義興の嫡子孫次郎を連れて四国に逃亡したとされる。後、三好青海入道と呼ばれて、関が原の戦場に現れる戦国の戦士である。
生き残った三好康長の後ろ姿を少しばかり追ってみる。信長に降伏後、河内半国の支配を命ぜられて、石山本願寺との和睦交渉、四国遠征担当として羽柴秀吉と組んで、対長宗我部工作を進めた。四国の安宅信康、三好康俊への働きかけをした。四国担当の明智光秀の工作とぶつかるところがあって、信長の判断を待つことが多かったものと思われる。光秀が本能寺の変を引き起こしたとき、康長は四国から急ぎ河内に逃亡して難を逃れた。康長の嫡男、三好康俊は処置を誤って、長宗我部氏から討ち取られた。康長は信長との間で、長宗我部氏を追い落とした後に、織田信孝を養子に迎えて四国支配を任せてもらう約束ができていたという。明智光秀の謀反事件の背景にこの四国計略破綻があったと考えられる。
悪党松永久秀はやはり変わり身が早い。三好義継が討ち取られると、天正元年12月、信長に降伏、山城国南部の奈良に近い多聞山城を信長に差し出して堪忍してもらい、信貴山城に引き籠もった。多聞山城を受け取った信長は、芸術作品ともいうべき城を気に入り、明智光秀、細川藤孝、柴田勝家らに引継ぎ城番を命じた。城郭の勉強をしたいとの信長の意図が感じられる。久秀は百メートルほどの眉間寺(みけんじ)山の上に城を被せるように乗せた。城内には多聞天を飾ったところから、「多聞山城」といわれるようになった。山上に戦のために城を拵えたのでなく、贅を尽くして居住性の高い観せる城をつくっていた。信長はこの城を見て得るところがあった。現在、この城をわれわれは観ることができない。安土城を造った信長が、美しさで対比できるこの多聞山城を残しておくことを厭い廃棄させたという。建造物の美しさにかほどまで意識を持つ信長の耽美特異性は異常である。
久秀が造作したこの城は落成後、大層評判になり、人は争うように見物に出かけた。この城について城番、細川藤孝を訪ねてきた歌学の指導者「三条西実枝さねき」は、「弾正殿が贅を尽くして建てただけのことはある」と感嘆したそうである。京都で布教活動していた若いイルマン(布教士)ルイス・デ・アルメイダは建物の中まで見せてもらって、本国に次のように報告している。
「城壁と塁堡とは、私が今までキリスト教国でみたこともないもので、その壁を真白くぴかぴか輝かせています」
「家と塁堡も皆、今まで私が見た最も美しい、感じの良い瓦で葺いてあって、瓦の色は黒く、指日本ほどの厚さです」
「7ぺー(2.1メートル)幅の廊下はいずれも一枚板で張ってあります。壁は日本やシナの古い歴史の描写で飾られていて、そのほか何も描いていないところはすべて金地でできています」
「柱頭と柱礎戸が着いている柱は上から下まで約1パルモ(22センチ)の太さで、真鍮でできていて同様に金を塗ってあり、薄浮彫の彫刻で飾られていて、全く黄金のように見えました」
「この都市(といっていいほどのところです)に足を踏み入れて、その道路を歩くと、地上の楽園に踏み入れる思いがします」 柳谷武夫訳
この布教士の多聞山城についての記述を見ると、天正7年に信長が築城した安土城の印象と重なるところがある。信長はこの城から多くの事を学んだようだ。
藤孝はこの城代のときに訪ねてきた三条西実枝(さねき)に歌学、古今集の伝授を再び受けた。話が前後するが、義昭を攻めている最中の、元亀4年7月10日、細川兵部大輔藤孝はこれまでの功績を称されて「城州の内桂川の西に限っての事、一職申し談じ候 全領地相違あるべからずの状件の如し 7月10日信長」と信長から朱印をもらった。一職支配とは行政支配のこと、勝龍寺三千貫から、一万貫の領地を支配となるのは大名の地位が固まったという事である。義兄三淵藤英は更なる藤孝の出世を羨んだであろう。
元亀4年(1570)7月18日を以って、足利幕府三百余年の室町政権は政治的終焉を迎えた。足利幕府の消滅と新しい安土桃山時代の到来である。三好一族が歴史の舞台から消え去った運命の年でもあった。
信長の行動は極めて範囲が広く迅速だ。足利幕府を倒したばかりなのに、武田信玄の死去で東方の脅威が無くなったということで、元亀4年(天正元年)8月8日、信長は再び湖北に封じ込めておいた浅井長政の小谷城に攻めかかる事にした。足利義昭の追い落としと三好勢の討伐に忙しかった秀吉は洛中から横山城に走り帰ってきた。 |
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