6.浅井 朝倉ともに滅ぶ

 元亀4年(1573)3月、武田信玄は三河遠征の陣中で病没。信長が恐れた東方からの信長領侵入の危機は去った。戦力を西のほうに振り向けることにして、同年8月8日、信長は岐阜を出発、東近江に向かった。小谷城の西側、琵琶湖に近い山本山(324b)山頂にある山本城の阿閉貞征(あつじさだまさ)が、羽柴秀吉に降ったので、小谷山戦線に変化が出たのである。姉川合戦から3年2ヶ月、横山城に張り付いていた秀吉の功績であった。山本山は朝日山(浅井山)とも呼ばれ、賤ケ岳、余呉山の南尾根に繋がる。

 信長はすかさず、小谷城の北国街道ルートを遮断し、小谷城包囲網を形成した。山本山に佐久間信盛、丹羽長秀、柴田勝家、木下秀吉を配置した。小谷城と琵琶湖とをつなぐ山本山が織田軍支配地になったので、援軍朝倉勢二万が小谷城に入ることができずに余呉と木之本田部山(たべやま)に布陣していた。「姉川の戦い」にも出てこなかった朝倉義景が今度は出陣して来ていた。田部山から眼下に木之本を見ることができる。また、山頂の田部山城から南東方面に山田山と小谷山が見える。朝倉義景はどんな気持ちで田部山城の上から景色を眺めていたのであろうか。

 ここで、小谷城の曲輪の配置を頭に入れておきたい。標高495bの小谷山(伊部山)の南部小谷(おだに)に浅井長政の祖父浅井亮政(すけまさ)が六角定頼の侵入を防ぎながら築城した小谷城である。小谷は南東に伸びる二つの稜線がちょうど和鋏のような形状をしており、握り部分にあたる内側に谷を形成している。この二つの稜線上に七つの砦と本丸(標高299b)とが配置されている。その砦のうち最も山裾に近い山崎丸は朝倉軍の砦である。朝倉の重臣山崎一族が守るその砦に朝倉軍援軍が入れない非常事態になったのである。

 天正元年(1573)8月2日、畿内一帯に嵐が襲来した。信長はその悪天候を利用して、まず、山崎砦の眼前の小谷にある丁野砦(ようのとりで)を襲い、ついで、小谷城の砦のうち最も奥の大嶽砦を自ら登頂攻撃し落城させた。手引きしたのは大嶽砦の北方の高尾根にいた浅見対馬守俊成であった。浅井郡尾上城を領する浅井家の家臣である。長政の祖父浅井亮政と競うようにして佐々木京極家を支えてきた浅見貞則の子である。浅井長政を支える気持ちが少なかったようだ。織田信長は「己が主を敵前で謀反したことと同じである」と論考褒賞を与えるどころか、尾上城を没収、追放処分にしている。信長の不実な人物に対する評価基準が見えてくる。

 小谷城の麓と山奥の大嶽砦とを打ち破った信長は、敗走する朝倉軍をわざと北国街道へ逃がした。浮き足立った朝倉軍は、8月13日、木之本から撤退をはじめた。敗勢の大軍は脆い。山本山の北側高月町の高見から見ていた信長は旗本を率いて朝倉軍を追尾した。北国街道の柳ケ瀬で朝倉軍に追いつき、疋田の疋壇城をめざして刀根坂を逃げる朝倉軍に壊滅的打撃を与えた。朝倉義景はようやく疋壇城に辿り着いたが、8月14日、すぐさまこの城からも脱出、北国街道を逃げた。「信長公記」には、朝倉軍武将38名、兵三千八百を討ち取ったとある。少し誇張が感じられるが、名ある武将が数多く討ち取られた。北の庄城朝倉景行、一門の朝倉道景、山崎吉家、河合吉統、斉藤龍興が討ち取られていた。美濃稲葉城を追われた斉藤龍興がこのようなところまで信長に対抗して転戦してきていた。虚仮の一念というのも酷であろうが、伊勢長島戦、摂津野田・福島戦、比叡山籠城戦、そして「刀根坂の戦い」と、まあ、粘り強い戦績を残したものである。龍興は将軍足利義昭に似たような粘着質の性格であるような気がする。

 刀根坂の勝勢のまま、信長は敦賀に突入した。朝倉軍は織田軍との戦いで、幾度も敗戦を喫しているが、どうも、戦場における指揮者の軍事判断力と兵士の機動力に欠けるところが決定的差異となっているようだ。これは朝倉義景と織田信長と武将としての力量の差といってもいいだろう。信長は戦略については自分一人で決める。部下の容喙を許さない。そして、戦場で積極果敢に行動する。田楽狭間で今川義元を討ち取った時も、部下に作戦の相談はせず、今川方の動きをみて即断実行した。絶体絶命の危機体験が武将としての信長の行動基本となった。「刀根坂の戦い」のとき、山本山に張り付けておいた佐久間信盛、柴田勝家らが作戦指示のとおり迅速に朝倉軍を追尾しなかったことについて、きつく叱責した。信盛の遅戦の言い訳も気に入らなかったらしい。とにかく戦いの時に転機をはずすと大変なことになることを信長は知っている。

 一乗谷の館に逃げ帰った朝倉義景は、織田軍を恐れるあまり、8月16日、五百の従者をつれて、焼け落ちた一乗谷から逃げ出して、大野郡東雲寺に籠った。最も責任重い立場の朝倉景鏡(かげあきら)が自領に逃れてきた義景を襲うという卑劣な裏切りは見苦しい。義景は自刃した。天正元年8月17日のことである。

 このような無残な最期を遂げるなら、朝倉十一代の繁栄の地一乗谷で朝倉氏を終わるべきであった。家臣、前波善継、富田長繁、阿閉貞征らに裏切られ、義景が筆頭家老の地位を与えてきた大野郡郡司朝倉景鏡から切りつけられるような終末は無残なものである。朝倉景鏡は主人義景の首を信長に差し出し、自領を安堵された。国を滅ぼすような男を重用してきた朝倉義景の不明がこのような結果を産んだ。

 織田信長は8月26日、浅井郡の虎御前山に帰着して、小谷城を攻める準備を始めた。目の前に小谷の曲輪「出丸砦」がある。その上の稜線には「金吾砦」さらに上には浅井長政とお市がいる「本丸」がある。曲輪の奥の方の砦は、秀吉たちが詰めている。小谷城はもう袋の鼠であった。

 武田信玄と朝倉義景が死去したので、小谷城の運命は極まった。絶望した長政は覚悟をきめた。降伏を勧める信長に対してこれを拒絶、お市と三人の娘を信長に渡して、城とともに最後を全うする気でいた。「浅井(あざい)の娘を世に残してくれ」とお市に託した言葉が、後世の歴史を揺り動かすことになろうとは長政は思いもよらなかったであろう。義昭は武田信玄と朝倉義景とを頼むことが強かったので、信玄の病没と朝倉義景の滅亡、それに小谷城の浅井長政の消滅は耐え難い思いであろう。