10. 今どきの若い介護士「園には針と糸はありません」

以下、彼女のお言葉…
お世話をしたくないときは、私は勝手な理由をつけて、お年寄りの頼みを断ることも平気でやります。この間、長パンツの紐が切れた短期の入所者に「施設には、針と糸はありません」と答えておきました。そしたら、同僚が構内放送で呼び出されて、パンツの紐を付け替えさせられていました。正確に言うと、同僚は他の入所者の所持するゴム紐を持ってきて、パンツのゴム紐を付け替えて、応急の処置をしてくれました。このことがあった翌日、介護長がやってきて、「どうして、針と糸はありません、と返事したの」とたしなめられたけれど、私は「知らない」と答えておきました。私は裁縫が苦手なので、針と糸が必要な場面に出っくわしたら、できるだけ逃げるようにしています。担当のお年寄りに、ボタン縢りを頼まれても、その衣類をそっと整理ダンスの中にしまい込むことにしています。ボタンが幾つも外れてしまったので、とうとうこのあいだ、園長に見つかってしまいました。園長は「自分の家では、炊事、洗濯、掃除をしなさい。園での介護に役立つはず」というけれど、苦手なものはやりたくないの。これが私の本音よ。
 …以上、彼女のお言葉。
 老婦人が「ここには、針と糸も置いていないのですか」と、長パンツを片手で持ちながら、呆れ顔で園長に尋ねたところから、寸劇が始まった。園長は、職員の詰め所に飛んでいって、班長に手当てを頼んだ。班長は「私、今レポート書きで手が離せませんので、その職員以外の人に頼みましょう」と、館内放送で別の職員をよんで、パンツの紐を取り替えさせた。班長は「このゴム紐は、ある入所者の私物なんですけど」とも言った。「貸して頂戴」ということで、ようやく決着がついたのだった。すっかり、施設の接遇に不信感を持った老婦人は、この後、短期入所するときは、裁縫道具を持ってくるようになった。園長にこの裁縫セットを見せてくれた。施設は評判を落とすことになるだろう。
 かの職員がボタン付けも嫌がって、お年寄りの衣類のボタンが落ちたままにして、ろくすっぽ面倒を見ていないのも園長は知っていた。こんな職員は、きっとどこかで、お年寄りから、反発を喰らうはずだ。老人だって、衣類の世話が苦手な職員に面倒見てもらうのは嫌だろう。この職員が担当する別のお年寄りは、時々頭髪をばらばらにして、ロビーに出てくる。先だって、この老人の足の爪が長くなっているのを知っていた私は、ベテラン職員が他のお年寄りの爪きりサービスしているのを見つけて、この不運なお年寄りの足の爪も切ってもらった。でも、爪切りでは切れなかった。ベテラン職員は、ラジオペンチのようなクリッパーを持ってきて「随分と手入れしていないのね」といった。
 身体と精神の健康回復を目指して毎日を楽しく過ごしてもらう、これが特別養護老人ホームの目指す理想だ。キャッチフレーズ「いきいきベターホームライフ」は、この施設で生れた。介護・看護に携わる職員に持ってほしい気持ちは「お年寄りに対するやさしさ」だと看護長はいう。
 「やさしさ」の持ち合わせが少ない職員は、結局は、介護技術は上達せ、お年寄りから喜ばれ、家族からは感謝され、職場の同僚との互助精神も生れ、上司から信頼され、に仕事を続けることになる。職場は不毛な「五砂漠」となる。やさしさの気持ちの少ない介護者は、老人施設には不向きだ。本人も仕事をしている幸せを感じる場合が少ないだろう。とうとう、この職員は、介護職を捨てて、看護師になりたいと、言い出して、近々退職をすることになった。この若者、果たして病人や、老人に優しい看護師になれるだろうか。
 私も、職員の一人だ。老人に優しい職員であり続けたいとの思いで、この職員を反面教師として、次のような職員の目標を作ってみた。これを職場のスローガンとするために、書家に墨書してもらい、額に入れてホールに掲示しておいた。
      介護する喜び 共に働く幸せ そして願うお年寄りの至福