3. 自分の末と真剣に向かい合う人
   「鬱」の字、教えてください

 突然に、「漢字を教えてください」と、にんじんさんに声を掛けられた。彼女を「にんじんさん」と呼ばせていただいている理由は、あとの説明を見ていただく。にんじんさんは、日記帳に「憂鬱」と書きたいのだけど、ということだった。「憂」は書けるけれども、「鬱」の字は、画数が多くて、私はとても書けない。辞書を調べたが、「ワ冠り」下左側は、活字によってまちまちであった。ともかく、印字が大きい辞書を書き写して、説明だけは済ませた。
 この方は、生れてから今日までのほとんどを隣の県で暮らした人だが、当施設に来て、日記を書き続けている努力家だ。県人気質を語るとき、この地方気質の特徴だ、と言われる思索型に属する人だ。何かと内省することが多い人で、介護する職員にとって、とても扱い難いタイプの人である。同室者にとっては、付き合いに気を使わねばならぬ人だ。私は、はじめは、この人に秘かに、その県名に「さん」をつけて呼んでいた。
 ご本人の話によると、高齢で働くことができなくなり、独居が難しくなって、これまで離れて暮らしていた一人息子夫婦と同居を余儀なくされた。同居はしたものの、嫁との折り合いが次第に悪くなるばかりだった。姑と嫁との関係悪化が進むにつれて、当然のことだが、息子も精神的に追い詰められ、同居家族は憂鬱な日々を送るはめになっていた。この老婦人は私淑する仏教寺院の和尚に、長期間にわたり精神指導を受けていたが、息子夫婦と同居する身では、その修行経験を生かすには、環境があまりにも違いすぎて、精神的苦悩は深まるばかりだった。
 この方は、施設に来てからも、周りのお年寄りとの共同生活が苦になった。また、職員の介護を素直に受け入れることが出来ないことが多くて、おのずから孤立して、一人だけの行動をするようになっていた。彼女の説明によると、この方は、幼少時から、家族の中で自分の場をみつけるのに苦労したらしい。優秀な姉妹と弟に対するコンプレックス、母親に対する反発心で、自ら傷つき、楽しくない少女時代・青春時代を送ったらしい。肉親との関係で苦労するのは、損な性質だ。孤高を保つには、強靭な精神と強い体力が必要である。だから、結婚しても、後家さんになっても、精神の庇護と心の指導を受けたいとの秘かな願いを持ち続けることになったのだろう。
 彼女の小さい体は、これまであちこちと痛んだし、心まで傷だらけになってしまっていた。今も、いくつもの薬を服用している。彼女の健康を心配して、見舞いに来る人が多い。以前からの友人も来るが、この施設に来てからの新しい知人も来る。この方の、精神状態や心理模様が気になって、様子を見に来るかたちだ。
 これとは逆に、相談や助言を求めに来る人もある。以前は、とてもかなわないと思った姉や妹たちの常識はずれの身勝手について、その子息とその嫁たちが、ものわかりのよい叔母・伯母さんに相談に来るようになった。人生レースにおいて、若い頃は、コンプレックスに悩んだ自称劣性娘は、人生行路で得た経験を肥やしにして、もう完全に姉や妹に対して優位に立っている。甥とその嫁に対して、助言できるまでに成長している。このことを彼女自身が確信しているようだ。
 いま、彼女は自分の人生結実に向かって、総括をしているところだ。わたしは、彼女の悩みが少し判るような気がする。ルナールの小説「にんじん」の主人公少年を思い出して、この本を、書店で買い求めてきて、彼女に読むことをすすめた。
 「にんじん」を読んでの感想を求めたところ、「共感するところがある。肉親の愛情があのようなかたちであるということに救いを感じる」ということだった。私は、この方をそれから、「にんじんさん」と呼ぶことにした。ご本人もこの仇名を了承した。これからの人生をこの施設で過ごす覚悟をしたにんじんさんは、毎日を懸命に生きることにしている。とても偉いことだが、このあいだ、「献体の手続きをしてきた」との話をしてくれた。
 彼女は一生を終わる準備を着々と進めている。田畑の譲渡、屋敷の売却、財産の分与などを、この施設で過ごしながら、ひとつ一つ片をつけている。施設には、「生活相談員」という職種の職員がいる。この生活相談員が、にんじんさんの手足となって、施設入所手続きから、彼女の生計相談までを手伝っている。この職員の手伝いのお陰で、財産にかかわる手続きについて、彼女は施設内で生活しながら、間違いも起こさずに処理ができたのだった。
 財産処分のとき、「母さん、お金をこちらに渡すという誓約書をください」という嫁との間に挟まって困り果てていた子息も、母から金子を受け取ってからは、母に対する態度が変わったという。こうなるまでには、生活相談員の陰の支援があってこそと、私は考えている。
 継続は力なり。環境が変わっても、修行や思索を続けて、人生勉強を続行すれば、自ずから、人間成長ができることを「にんじんさん」は示してくれた。この方は、立派な人に成長しておられる。だから、自省の記録として日記を書き続けたいと思っておられるこの人を、長く支えていく気持ちをわたしは伝えた。彼女は喜んでくれた。
 このところ、私は、にんじんさんの部屋を、訪れることを遠慮している。お勉強一途のにんじんさんと、日本や世界で起きている事件や、政治、経済、音楽、歴史などについて、話を交わすことはとても有益だとおもう。だが、彼女が悩みを解決した後の虚脱感、あるいは開放感のなかに、私との交流に負担を覚える節がみえたので、言葉を掛けるのを減らしている。先だって手紙を頂戴した。「先生の元気を喜びます。さりげなく思いやるこの状態がいいのでしょうね。私がお話したいと思うまでそっとしておいてください」と、あった。神経の細やかな人の介護は、むずかしいと思う。
 にんじんさんの最後について、書き留めて置かねばならない。床から離れることができなくなった彼女は、とうとう病院で治療を受けることになった。遠い病院であるが、施設の看護師が療養の手伝いに出向いていた。ある日、看護師が「あの方が、『園長さんにご免なさい』と言ってましたよ」、と伝えてくれた。彼女は自分の命が旦夕にせまっていることに気付いていた。私が出張から帰った日の夕方、ひとり卒然とこの世を去った。私も、一人息子も看取りが出来なかった。