2. こんなに身綺麗な人も世の中にいるものです
   3年半かけて異腹の兄を探し出し、遺産の未開封通帳を差し出す

 ある朝のこと、遺族のお一人から「家出して40年の義兄を探し出したので同道して、そちらに伺う」と連絡が入った。大阪のホテルで落ち合って、新幹線に乗車、兄弟揃って来園された。ホテルでの40年振りの兄弟再会を果たして、感激がさめぬままその足で新大阪駅に来たとのことであった。
 義兄を連れてきた男性の目的は、「あなたの母さんを長年世話した施設に、挨拶なさい」ということであった。3年半前、当園でキリスト教葬を営み、身元引受人であるその男性に老婦人の遺骨を引き渡していた。このとき、クリスチャン職員のお世話で、清楚で簡潔な葬儀を執り行うことができたので、遺族は感謝されたと思う。遺族とはいえ、老婦人の長男が行方不明であるため、とりあえず長男の異腹の弟さんが、横浜から駆けつけて、身内一人の葬儀を執行できたのだった。この義弟さんは、それから、40年前に家を飛び出した義兄を、手を尽くして探しだしたとのこと。母を置いたままアメリカに飛び出した義兄は、必ずしも順調とはいえぬ人生を送っている、との説明であった。
 義弟さんは、私の前で、亡くなった婦人の銀行通帳を義兄に手渡した。「義兄さん、これが、伯母さんが残したお金ですよ」。長男さんは、通帳を容れた当園の紙封筒の封を切った。封筒の封は、3年半前に当園が義弟さんに渡したそのままであった。
 ちょうど、映画のシーンを見るようだった。兄さんの眼から、涙が滲み出していた。今、人を信じることが難しいくらいの逆境にある人にとって、信じがたいほどの、義弟の誠意であった。腹の底からたぎり起こってくる感動であったろう。義兄の言葉は、ぽつぽつと出てくる感情の泡のようにゆっくりと、吐き出された。家出したまま親不幸を続けたこと、自分が播いた種とはいえあまりにも無残なこれまでの道程、義弟に掛けた迷惑、そして今知った彼の誠意、これらを問わず語りに話してくれた。
 戦前の富裕な醸造業者を父とする二人の異腹の兄弟。弟の方が父の姓を名乗っていた。兄の方は、アメリカ留学の手続きのときに、父の名を知ったとのことであった。ショックのあまり、そのまま家出渡米し、母との交信もないまま、今日まで、40年を過ごした。ものすごい母子の断絶の実話である。母さんは、辛かったこととおもう。異腹の弟さんは、幸せ薄い「伯母さん」を何くれとなく面倒みてくれていた。葬儀のあと、義弟さんは父の墓に埋葬することは出来ないが、同じ境内に仮納骨して、義兄を探すと説明していた。
 揃って墓参りをすると言って二人は園を去った。義兄さんは、その後2年にわたり感謝の手紙と夏中見舞い品を、当園に贈ってくださった。どうぞ、兄弟仲良く暮らしてと言う主旨の手紙とともに、園長は謝意を込めて、爾後の便りを謝絶した。義兄さんは、きっと心静かに暮らしていると信じたい。そして私は、お母さんに言いたい。泣かない雌の油蝉よ、「もう声をあげて泣いてもいいですよ」と。
             はようとべ 生ける証に うぶの蝉…