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14. まだ下着を着けないのですか
園長と親密になりたい魂胆ですね
20分経っても、まだパンツを穿かないのですか。園長は困ってしまいます。ご婦人が、パンツをつけるところに行き合わせたものですから、「後ほど来ます」と、引き下がって来たのに、まだ裸のままなんて困ります。「男を知らぬ肌を、園長に見せてしまって」なんて、言いながらまだパンツを着けずに、ベッドに腰掛けたままで居るのはとても奇妙です。
この方は、戦時中に結婚し、応召されたご主人は、戦死なさっている。男に肌を見せたことがないなんて、真っ赤な嘘である。園長と親密になりたい魂胆が、有りありの見えみえです。定年まで精一杯働き、買い求めた広い屋敷が一等地になった強運の持ち主で、なかなか人の言うことを聞かないことで、近所で評判の方らしい。何人からも、同じ話を聞くから、相当な強情らしい。園長は、警戒しています。
以前のことだった。そのご婦人が「今度、私の家に遊びにお出でなさい。家の前の桜並木が素晴らしいですよ」と、自宅前の大きな道路に咲く桜の花の美しさを、熱心に説明してくれた。広い屋敷と立派な庭、貸し駐車場があるとか。私は、その大きな道路が、戦後びっくりするほどの短い工期で出来たこと、道の中央には珍しくも桜の木がずらりと植え込まれたことを知っている。地価の高騰と都市のスクロール現象で、大都市周辺の土地持ちは、田畑を農地外に転用して、資産を膨らませることができた。この方も、そのお一人であろう。どうしようもなく、一人暮らしのままできて、資産だけが残りそうというのは、悲しいですね。
戦後復興を願って、皆懸命に働いてきた。伴侶を失って、子供を育て、舅と姑とひとつ屋根の下で暮らした未亡人という人が、入所者に多い。また、運よく夫婦で力を合わせて生きてきた人も、寄る年波に抗しきれずに入所に至った人もいらっしゃる。いま、施設に親を預けている世代の人は、家族の紐帯が強い人が多いので、入所老人は孤独に精神をさいなまれる人は少ないと、見受けられる。一方、頼りにする家族がいなくなってしまった入所老人は可哀相だ。
「私の財産を誰が取るのかしら」と悩んでいる老人の悩みは、軽い悩みではある。身近に家族が居ない人は、財産どころか、自分の先行きを、考えるだけでも不安なものです。
今日、午後おやつの時間、お年寄りのグループと歌を唄っていたところ、「先生の声が聞こえたので…」といいながら強情っ張りさんが車椅子を押して出てきた。「もう、貴方の頼みでも、親切はほどほどにします。あなたが、誤解しないように」。
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