1.立花宗茂 二十年振りの柳河城入城

元和七年(1621)二月二六日、宗茂一行は筑後に着いた。久留米から筑後川沿いの城島、榎津、酒見など旧領を視察しながら、ゆっくりと旅程をこなしていった。

二月二十八日、矢部川の下流「沖之端川」に架かる「大門橋」(御仮り橋)を渡り、町民の出迎えを受けた。

馬上の宗茂からは南の正面に、初めて見る柳河城五層の天守閣が聳えていた。立花藩が田中吉政の手に渡ったあとに修築された城である。宗茂の感激は如何ばかりであったろうか。宗茂の感慨を思いやると、こちらまで胸が痛くなる。やがて、辻門の前の馬寄せ場「片原町」に、長旅の武士団は勢揃いした。

 辻門橋の城内側には江戸から先遣されていた部隊と肥後藩から出てきた武士団の面々が出迎えに来ていた。関ヶ原戦後、柳河城を出てから二十年余りになる。宗茂が加藤清正の肥後領を離れてからでも十八年あまりだ。主従がやっと顔を合わせた瞬間の喜びは言葉では表せぬ感動であったろう。

城内村に入り柳河城正門に架かる黒門橋を渡る江戸からの武士団は長い列となっていた。城内には宗茂主従を幕府の正使が待ちうけていた。城の受け渡し儀式は滞りなく済み、幕臣5人はその日のうちに柳河を離れた。竹中采女正・松倉豊前守は長崎と島原が任地だが、岡田将監・秋元但馬守・内藤左馬之助は幕府の代官で任地は遠い。宗茂は二月晦日に、さっそく〈金地院崇伝〉にあてて報告書状をしたためた。崇伝はこう書いている。

『立花左近殿二月晦日の状来る、筑後柳河より来る。路次中天気悪しく、二月二十六日筑後へ着、同二十八日城受け取り、まかり移り、日取り故、忝く候、この儀先ず申し上ぐべき為一書と、申し来る』

宗茂は徳川秀忠に対する感謝の気持ちを込めて、肥後の旧臣に入国の指示を出している。「将軍様、元和七年かのととり正月お暇下され、年明緩々とまかり下るべしと仰せ出され候間、二月末・三月初め入国たるべく候」と。

元和六年十一月以降、宗茂はひんぱんに幕府閣僚と打ち合わせて、遺漏なきを期した。南郷藩の領知は同年末までとし、領内の家臣に離藩の指示を出した。旧領柳河にもどることで、心弾む五十五歳の宗茂は年明けて正月二十一日、江戸を出立した。道中は季節上、多雨のときで、難儀したらしい。

二月朔日(初午) 嶋田宿、南郷組と合流(南郷日本橋 約五十四里)

二月五日     近江膳所、本田縫殿助(宗茂妹千代の娘嫁ぎ先岳父)見舞う

二月五日     京都、冨士谷屋敷入り

二月十日     大坂、鍋屋屋敷入り

二月十四日    大坂 、船出

嶋田宿で、棚倉(南郷)を出てきた家臣が追いついた。南郷現地の武士たちと江戸屋敷の家臣がやっと一緒になったので宗茂はとても喜んだ。「愛嬌、挨拶欠かさず仲良くしよう」と家臣に声をかけた。「えーきょうえーさつばしてなかんよかごつ」と柳河訛りで声をあげた。この日は初午(はつうま)であったので、気の利く南郷の家臣が枡に赤飯を盛り上げ、柳の枝を箸として宗茂に差し上げたので、とてもご機嫌だったらしい。いまでも、柳河では「えーぎょうえーさつ」の子供の祭りとして残っている。昔、町では「ばんこ」にお赤飯と膾を出して、お手こぼに取り食べる風習があったが、太平洋戦争の食糧統制で、この町の質素な風景は消えた。

柳河藩祖〈立花宗茂〉を改めて紹介したい。柳河の人ほとんどが、ご存知の戦国武将だが、全国区では『宗茂』の知名度はさほど高くない。下刻上が当たり前のような戦国時代を、誠実に処世して生きた当時としては珍しい武人であった。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がくりひろげる覇権への死闘劇と朝鮮侵攻の地獄図の中を、運よく生き延びることができた幸運な武将「宗茂」。こよなく力強くそして、さわやかに生きた武将を、柳河の人は尊敬の念を込めて「宗茂公」と呼ぶ。稀有な人生を送ることが出来たのは、宗茂公が温厚な人柄と立派な人格の持ち主であり、戦場では比類なき強靭な武将であったからである。

宗茂公の生き様がいつ見ても、さわやかなのがいい。戦国時代に生涯を通して、ぶれることなく活躍した武将は、温厚な人柄と強い性格とが兼ね備わっている。人間に芯があるので、行動に間違いや、揺らぎが少ない。宗茂と同時代に、人柄が清廉で、かつ厚情な心情があり、行動が信頼するに足る立派な人物が宗茂のそばにいた。〈小早川隆景〉である。この武将は武人としての力量があり、また人望があった。終生変節することなく、指導者として生きたところが隆景の魅力である。宗茂は父親ほど年の離れた隆景の生き様に学ぶところが多かったのではなかろうかと思う。

宗茂は武士としての資質は十分である。どんな修羅場であっても侍らしくたじろがない。起居振る舞いが悠々としているし、戦場での判断に間違いが少ない。だから、宗茂と競いあう立場の武将を除いて、宗茂と接触した人は、こぞって宗茂の支持者となる。一時は藩の消長をかけて宗茂と戦った小早川隆景、島津義弘が、ともに働くことになったとき、二人の宗茂を信頼すること一方ならぬものがあった。この二人から見た若い宗茂という人物の確かさは、間違いなかった。

宗茂は、人を大切に扱わない人物を嫌った。贅を尽くすことをしなかった。ことを大げさにすることを慎んだ。この武将は城や神社仏閣の壮大美麗であることを必ずしも喜ばなかった。このようなことがあった。元和七年(1621)、宗茂が再び柳河に帰り来たとき、城は五層の天守閣を持つ威風ある構築物になっていた。再度の入封を慶賀するため、隣藩の鍋島勝茂が柳河城を訪れたとき、立花の重臣が「田中殿のおかげで、城閣が立派になっていてよかった」と言ったところ、宗茂は「そんな配慮は無用にせよ」とたしなめたそうである。

「鍋島勝茂如きにそんな気配りは無用」と言いたかったのもあろうが、いくら建物が立派でも「あの田中家の様をみたか」と言いたかったのである。「城池屋敷が立派過ぎると、家中の人の心が通わなくなる」と言う意味の訓話をしたそうである。

この堂々たる城閣は、関ヶ原合戦後に入封した田中吉政が、八年間在柳しているうちに造作したのだった。吉政は城改修のほか、城防衛上の理由から、城の西側を流れる沖之端川をさらに西側に遠ざける河川工事をし、城壁を高くしていた。ほかにも、矢部川の治水工事、久留米との往還道路整備、八女福島と柳河との道路敷設、筑後川東側の土居(慶長大土居)構築、筑後川東岸の新田開発と矢継ぎ早の領地開発を続けていた。宗茂は「こんな建物ができても、悪政で人を泣かせて何になる」と言いたかったのかも知れぬ。

寛永十二年、実父、高橋紹運(じょううん)の五十回忌に建てた〈天叟寺てんそうじ〉は、後のことを考えて、宗茂はできるだけ規模を大きくしないようにと注文をつけている。江戸屋敷購入などの物入りで藩の財政が厳しいときであったし、出羽山形に藩が移封するかもしれぬという可能性もあった。『やがて後まで間に合う様には無用に候』と二代目藩主立花忠茂に書き送っている。その代わり、寺の開基は臨済宗妙心寺から萬瑛和尚を迎えて、立派な寺を開く手配をしている。誠実な父、高橋紹運にふさわしい小ぢんまりしたお寺さんである。

立花藩の質実な藩風は、実にこの宗茂の時代にできあがったものとおもえる。藩主といえども、苦しく貧しい時を家臣と過ごしたことを忘れぬために、例えば正月には「拝み鰯」を膳に載せるのである。鰯のなかでも美味とはいえぬ「うるめ鰯」を藩主の館でも飾るのである。家臣とともに、暮らした意味をいつも考えていた宗茂を、家臣や町民、農民は「とんさん」と崇め親しんだ。