2.「天下の蓋」小早川隆景 

〈佐々成政〉が肥後に入国するにあたって、秀吉から「肥後一国に於いて地侍五十二人に対して本領安堵の朱印状を出している」「この者共の知行所は、成政の領分外のものとして取り扱うように」「三年検地はあるまじきこと」「上方普請三年、免許せしむるのこと」と言い渡されていた。九州遠征のとき、秀吉のお伽衆としてお供していた成政はその辺りは、理解しておかなければならぬことであった。秀吉が肥後五十万石を、なぜ成政に預けたかを理解しなければいけなかった。小早川隆景領と並ぶ広大な領地を、勇猛な武将として鳴らした成政に預けるのは、唐国までも領土を拡大したい太閤の野望があるからであった。九州遠征に従った成政は、秀吉の博多での采配を見ただけで秀吉の野望を判るべきであった。

佐々成政(さっさなりまさ)はどうして、秀吉の指示を守らなかったのだろうか。天正十五年五月、黒田孝高の豊前入りとほぼ同時に、肥後に入封した佐々成政は、国衆に知行目録を手渡し、検地を強行しようとした。国人は秀吉からすでに所領安堵の朱印を得ているとして反発し、まず隈府城(わいふ)の隈部親永が反乱した。そして、城村城(しろむらじょう)に隈部親泰(親永の子)が一万五千人で籠城した。佐々勢は反乱を抑えきれず、逆に平山城に押し込められる始末であった。黒田孝高の秀吉への連絡で、まず、鍋島直茂が五千の兵士派遣と食糧輸送をしたが、食糧を奪われて目的を達することができなかった。佐々は宗茂に助成を要請してきたのであった。宗茂からの連絡で、秀吉の九州遠征軍残留隊がさっそく、隈本城救援に動いた。秀吉の御朱印いわく「小早川秀包を総大将として、筑後、肥前勢の救援出動を命ずる」。このようにして、黒田孝高・鍋島直茂、安国寺恵瓊・小早川秀包、浅野長吉・立花宗茂・高橋直次らの三部隊の面々が総がかりで働いた。肥後全域が沈静化するのに多くの犠牲者が出た。

織田信長軍団の武将のひとり、越中富山城主として勇猛を謳われた成政だが、肥後の国衆を治めることができなかったのはどうしてだろう。歴史上群雄割拠の状態が続いてきた肥後の土地柄を理解できないで、秀吉の「定め」を、着任してすぐに反古にして、墓穴を掘ってしまった。私の推測だが、城持ち時代の奉公人を再び呼び寄せたかったのだと思う。自領を早く確認し手勢を多く持ちたかったのであろう。成政は天正十三年(1585)、越中富山城を秀吉に明け渡して、越中東部新川郡だけを領する小名になりさがった哀れな秀吉の捕らわれ人であった。反抗したばかりに、秀吉に預けていた成政の次女(九歳)と乳母は京都河原で磔刑に処せられていた。この二年間は、妻子ともに大坂に移住させられ、太閤殿下の御伽衆として、屈辱的な奉公をしなければならなかった。秀吉は恐ろしい人物であることを、成政はもう判っていなければならなかった。織田信長軍団のなかで柴田勝家派として有名だった成政は、国政の指導者としては、少々思慮がたりなかった。今度は釈明に出てきたところ、弁明の機会も与えられず、尼ヶ崎まで来たところで切腹を命ぜられた。

秀吉は九州遠征後の大名配置を次の遠征計画・朝鮮渡海のための布石にするつもりである。だから、九州の国人衆に対しても、この計画に対する障害となることは許さない。新しく小早川隆景、佐々成政、黒田孝高、毛利勝信らを要石として布石したからには、国人衆の反抗は徹底的に弾圧する。協力的でない領主は波多三河守(領地唐津・松浦)の例のように追放する。治世二百余年を誇る諫早の西郷家(西郷純堯すみたか)は秀吉の島津追討に参戦もせず、挨拶に伺候しなかったので、〈竜造寺家晴〉に諫早城を乗っ取られた。西郷家はこれで消滅した。

恭順の意を表した肥前の〈竜造寺政家〉でも、父隆信が北部九州を席捲した罪と大友宗麟の版図を侵した経緯を問われて、隠居の朱印状を渡される始末であった。竜造寺政家から柳河城を預けられていた水ヶ江〈竜造寺家晴〉は、薩摩征伐に向けて先陣を受けたまわったが、柳河城を立花宗茂に渡すことになった。ところで、行き場を失った家晴は西郷党の領地「諫早」を分捕ったのだった。

 世評で「天下の蓋」といわれた小早川隆景は、秀吉が自分の旗本あるいは参謀として側に置きたい存在であった。だから、秀吉は島津征伐の後、九州に大名配置するとき、対朝鮮半島戦略上、重要な拠点となる筑前を、小早川隆景へと決めた。これまでの長い間、秀吉政権の参謀的存在であった黒田孝高には豊前六郡があてがわれた。孝高にいわすれば「たったこれだけ与えられただけであった」と言ったほうが正確な表現かもしれない。政権から遠ざけられた意味があったのを、当然黒田孝高本人はわかった。自分と似たような危険な人物に対する秀吉の警戒感や恐れが、孝高に向けられていることを知ったとき、孝高は政権中枢から離れることを覚悟したのだった。

秀吉は「官兵衛(かんぴょうゑ)」に対する遠慮もあって、豊前の石高を申告次第とし、検地も免除した。実質二十四~二十五万石はある領地は、孝高の言い値十二万石となった。豊前六郡が十二万石であるわけがない。だが、秀吉が笑いながらこれを認めたのだった。天正十五年(1587)七月、孝高は豊前六郡に入封、豊前苅田馬ヶ岳城に居を定めた。しかし、孝高が国人たちから新領主として認めてもらうには、危険な綱渡り的な経略が必要であった。

黒田孝高は、同年六月、肥後の佐々(さっさ)成政の入国失敗を、目の当たりにしてきたのであった。成政は肥後国人の反乱を抑えることが出来ずに、秀吉軍傘下に入った筑後・肥前の諸大名の支援を受けて、ようやく一揆を鎮圧した。〈かんぴょうゑ〉は、秀吉軍の軍監の立場で、肥後の武力鎮圧を終えて、急ぎ馬ヶ岳城にもどった。秀吉との約束で、豊前国衆二十一人を自領の寄騎として取り込まなければならなかった。

豊前国衆からすれば、大友でも毛利でもない守護大名を操る豊臣秀吉なるものが、豊前に現れて、瞬く間に九州制覇をしてしまったのには驚いた。これまで豊後に押し寄せて来ていた島津勢を南部九州に追い返してしまった実力には、ただ驚きの外なかった。豊前国衆はやがて、新しい領主黒田孝高(よしたか)が秀吉に負けない、したたかな男であることを知ることになる。

永禄年間の企救(きく)と豊前は、門司城・松山城・馬ヶ岳城をめぐって、大友と毛利とが争奪戦を繰り返していた擾乱の地であった。豊前海岸の苅田(かんだ)にある馬ヶ岳城は、平安時代末期、平康盛(平清盛の従兄弟)が豊前国司として着任してから、この天正年間まで連綿と続く平家一族の長野氏が拠り所とする城であった。ちなみに、〈長野〉を名乗る謂われは、この平氏の子孫が豊前国規矩郡長野に領地を所有したからである。国衆たちは、新領主黒田孝高が唐突に現れた、という理解であろう。

その国衆の一人は豊前城井谷(きいだに)の豪族宇都宮鎮房(しげふさ)であった。宇都宮家は下野国宇都宮一族である。源頼朝の命により、宇都宮信房が文治五年(1185)豊前の総地頭となって下向し、神楽城に入り、その後本庄城、大平城に移り、城井郷に詰城を築いたといわれる。鎮房は馬ヶ岳城の長野三郎左衛門祐盛(秋月種実弟)とともに、大友、毛利との間を泳いでいた武人であった。

九州大名の配置・国替えの時、宇都宮鎮房は、秀吉から四国今治(いまばり)十二万石か筑後南部二百町へ転封する指示を出されたが、まずいことに、これを断ったので、秀吉を怒らせてしまった。鎮房は豊前領を取り上げられて、行き場のない状態に追い込まれていた。秀吉が全国制覇の途上に、九州の大名配置を完成させて、次は唐国までと目論んでいることを、豊前の国衆は知るべきであった。天正十五年十月朔日、豊前山内城如法寺輝則、高田城有吉内記らが一揆の狼煙をあげたので、宇都宮鎮房も大平城を奪取して城井(きい)宇都宮勢が籠城した。

驚いた孝高は、秀吉に報告、近隣の毛利勝信や毛利輝元に援軍を要請した。孝高は佐々成政の二の舞をするわけにはいかなかった。同年十二月、一旦は鎮房と和議をむすび、翌天正十六年始めに中津城を築き移ることにした。そして、孝高は新築中津城で、鎮房と一族をだまし討ちした。それも残酷なまでに、徹底的におこなった。

中津城での鎮房だまし討ちは、嫡子長政が実行したものだが、孝高は中津城をわざと留守にして、宇都宮鎮房の子朝房を肥後に連れ出し、加藤清正にこの正嫡を殺させている。清正にどのように殺人を依頼したのであろうか。後で事情を知った加藤清正は、玉名郡木ノ葉に宇都宮神社を建立し朝房を祀っている。この黒田親子の血生臭い事件は、九州の人たちの記憶から消えることはなかった。あるとき、小早川隆景が黒田長政に『仁愛』の心があれば間違ったことをすることがない、ということを教え諭したといわれるが、長政には仁愛を求めても、かなわぬ望みであるとわたしは思う。