3.統治の向こうにある秀吉の政治野心
秀吉は、自分の期待を裏切る仕事振りを許さなかった恐ろしい支配者であったから、配下の奉公人は、秀吉の指示を守ることが肝要であった。ひとつ例を挙げる。
秀吉家中に加藤作内(光泰)という武将がいた。美濃大垣の城主を務めていた。天正十三年九月に突然、城主を解任された。解任の理由は、蔵入り地を預けたのに、作内は任務の内容が判っていないというのである。秀吉の処断は『日本国は申すに及ばず、唐国までも仰せ付けられる心に候歟(や)……知行よりも人数を多く相抱え候之間……』と一柳市介への文書で明らかにしている。秀吉の直轄地は筑前・筑後、長崎、豊後、日向など全国に散在しているが、この大垣にも秀吉からの預かり地があった。加藤作内は、奉公人を多く抱えすぎて、収益を豊臣家に納めきれないと見られたのである。作内は秀吉家中から外れて、羽柴秀長に勉強のために預けられた。
だから、秀吉の直轄地を預かる代官は心が休まらないのである。どうしても、無理押しをして突っ走らざるを得ない。秀吉の奉行は、今流にいえば収益性を高く、労働分配率を低く経営することが求められたのである。こうして、豊臣家は富を生み出していった。加藤光泰は文禄の役に軍監としてしゃにむに働いて、奉行石田三成から疎まれた。
秀吉の奉行のうち、情理に流されず薄情に処理をすすめる〈増田長盛〉は重宝がられ、秀吉の意図するところを徹底的に遂行する〈石田三成〉は信頼を勝ち得た。庶務・経理が上手な長束(なつか)正家は能力を買われて、丹羽長秀の家臣から秀吉直臣に引き立てられた。朝廷や寺社に睨みを利かす〈前田玄以〉は便利な存在であった。ただ、情け深い〈浅野長吉〉は秀吉から叱かられることが多く、奉行としては、最後尾に置かれた。
大名統治の政策として、領国の検地方針は、秀吉全国支配の根幹をなすものである。諸大名に対する太閤検地は、石高表示で、領国の国力を測る意図で実施された、これが諸大名に課す公課基準となった。派兵、築城、治水土木、道路事業を大名に課すときの計算根拠となった。秀吉から領国を与えられた大名は、石高に応じて、奉公人を抱えなければならず、秀吉が命じる事業を果たすことを求められたのである。
秀吉から佐々成政救援の指示を受けた宗茂は、柳河着任間もない時ではあったが、久留米城に入ったばかりの小早川秀包(ひでかね)と協力して、肥後戦乱の収拾に向かったのだった。天正十五年九月八日付、秀吉朱印状には、「小早川秀包を救援隊総大将、恵瓊を軍監とし、筑後・肥前諸将を配下とする」とある。秀包は宗茂と同じ年、ともに新地着任、領地石高もほぼ同じと、経歴が似通っている。若い城主ふたりは、この仕事を務めるうちに、堅い友情がめばえて、義兄弟の誓いを交わしたのであった。
〈小早川秀包〉は毛利元就の九男。年齢が離れた兄小早川隆景の養子となり、秀吉への質子として送り込まれた経歴の持ち主だ。また、永禄年間の北部九州をめぐる毛利と大友との争いの和解のしるしとして、大友宗麟の娘桂姫を室としている。秀吉から伊予国三万石を与えられ、天正十四年八月、毛利輝元軍の九州遠征のとき、兄吉川(きっかわ)元春と小早川隆景に従って従軍、功績によって、秀吉から筑後北部三郡を得たばかりであった。そして、今度は肥後国人一揆鎮圧のために、安国寺恵瓊と合わせて駆り出された。これに連動するかたちで、養父隆景は筑前名島から一時、久留米城に移り、筑前・筑後の国人の反乱に備えた。
小早川秀包隊の軍監は毛利軍の安国寺恵瓊であり、宗茂隊には浅野長吉という秀吉の旗本が軍監として付いた。この浅野長吉は、秀吉の室〈寧々〉の妹〈やや〉の夫君である。秀吉義弟に当たる。後年、浅野長政と名乗り、秀吉の旗本として秀吉政権を支え続けた人物である。人柄が誠実であり、変節しない人物である。肥後国人一揆の戦いのなかで、宗茂はこの軍監浅野長吉から、信頼を勝ち得たのだった。ふたりとも長生きをしたが、終生変わらぬ信頼関係であった。
これは余談になるが、肥前の鍋島直茂が肥後に出動したのは、佐々成政救援隊としては最も早く、軍監に黒田官兵衛が付いた。黒田官兵衛は、成政と同時に豊前六郡を預かる立場になったので、軍監として懸命に動乱収拾にあたり、すぐさま領国にとって返し、一揆の飛び火を防ごうとしたのだった。
天正十五年九月五日、秀包隊は国境南関(なんかん)から入っていった。立花隊は九月下旬に動いた。柳河に封入して半年も経っていない。立花軍勢八百余人、高橋直次(江浦城)三百人が合流、救援食糧荷駄隊を伴って、肥後に入っていった。一揆勢の抵抗はすさまじかった。立花勢の犠牲は戦死百六十三人、負傷五十余人とされている。立花勢が関わった肥後国人衆の戦死六百五十余人とされている。
宗茂隊は降参した肥後国人百五十人ほどを領内に預かっていたのだが、秀吉は義弟浅野長吉を通して、降参人の殺害を命じてきた。宗茂は軍監浅野長吉が瞠目するような立派な処置をしたのだった。柳河の人たちはこれを「黒門橋の戦い」といっている。柳河城の正門は、当時「黒門」であった。この正門に架かる橋が黒門橋である。宗茂は、領内に預かっていた武士のうち、一揆の首魁隈部親永など十二名を「放し討ち」にしたのである。
宗茂から柳河城に呼び出された隈部親永は、次子〈内古賀政利〉ら精鋭二十名を引き連れて黒門橋を渡ってきた。宗茂は、隈部側十二名と立花藩の討ち手との一対一の果し合いにしたのである。宗茂は肥後の武人の名誉のために、討ち手も藩の重臣を差し向けたのである。討ち手を破れば無罪放免とするとした。呼び出しを受けた肥後人は、この宗茂の武士の面目を保つ仕切りに、納得して命をかけた対戦をした。
天正十六年五月二十六日、柳河城、正門(黒門)から入ったところの三の丸広場で対戦が行われた。討ち手の面々を紹介する。この名を見た柳河の人は、宗茂の肥後人に対する誠意が判るであろう。
十時摂津 十時勘解由 十時伝右衛門 池辺龍右衛門 池辺彦左衛門 新田掃部介内田忠兵衛 安東五郎右衛門 安東善右衛門 石松安兵衛 原尻宮内 森又右衛門
「放し討ち」で、森又右衛門のみ討ち死にであった。これは肥後一揆の悲しい結末であった。哀れを誘ったのは、隈部側に新田掃部介の弟〈新田善良〉がいたことであった。善良は新田氏景の末子で善導寺の僧侶だったが、隈部親永に還俗させられていた。善良の性格を好ましく思う人が前日、逃亡を勧めたのだが二十六日、柳河城に姿を現したのだった。斬られる前に、城内東南の隅「巽の櫓」に佇む立花宗茂に向かって一礼し、ろくに太刀打ちもせずに斬られた。ともに観戦した検死役浅野長吉は驚嘆した。報告を受けた秀吉は宗茂を誉めたという。黒田親子と比べたら確かに宗茂は武人らしい。でも、宗茂は誉められても、喜びは感じなかったはずである。若いけれども、人の命を預かる領主としての分別をすでに持ち合わせていたであろう。宗茂には仁愛の心があった。斬られた隈部勢の墓は黒門橋から黒門を入り、右折した城内にあるようだ。私はまだ確認していない。とても悲しいところをわざわざ見に行く気になれない。
ついでに肥後一揆の始末の話をする。一揆を主導した隈部親永の嫡子親安や有働兼元は、豊前小倉で毛利勝信(吉成)に預けられていたが、すでに誅殺されていて、隈部氏本流は滅亡したのであった。宗茂は肥後の名家の末を惜しんで、一族の隈部尾張守鎮連の子〈隈部成実〉を立花の家臣とした。勿論、秀吉の目をはばかって、「宇野某」と称させた。宇野家の説明では、宗茂の臣下となったのは、慶長三年(1598)八月、すなわち秀吉没後のこととしている。
黒田孝高の国人の取り扱いについては、先に述べたが、孝高は宗茂や小早川隆景とは肌合いの異なる人であった。謀略を嫌う宗茂は、黒田孝高とは胸襟を開くような親交はしなかった。年齢も立場も違った。やがて、孝高は四十四歳になったことを理由に秀吉に隠退を申し出た。天正十七年(1589)のことであった。自分と似たようなことを考える恐ろしい秀吉から離れるきっかけがほしかったのだろうか。あるいは、クリスチャンとして精神がさいなまれることが多かったのか。いや、違う。秀吉の朝鮮出兵の布石を手伝ううちに、無益な朝鮮侵入戦争に加わりたくない気持が、固まったのだと思う。
隠居の名前は〈如水〉であった。水の流るが如く清々とした境地でありたいとの願いを込めて決めた名前としているが、秀吉没後の如水の行動をみると、とても清々とした心境に在ったとは思われない。時至れば王者の道を駆け登る野心、よく言えば情熱を失わない精神力の持ち主であった。恐ろしい天下人秀吉を上回るほどの才知の持ち主孝高は、天下人が投げかけてくる難題を避ける能力を身に付けていた。佐々成政が新領国で治世失敗したようなことは決してしなかった。
その黒田孝高に近づいたのは〈鍋島直茂〉であった。孝高は秀吉に取次ぎが出来る確かな人物だと見たからである。秀吉が島津征伐で九州に遠征してきた時、黒田孝高を通して、歓を通じてきたのは竜造寺方の重臣鍋島直茂であった。竜造寺家を束ねる統率力を持つ直茂は、とうとう竜造寺隆信の嫡子政家をしのぐ地位を、秀吉から得たのであった。そして、肥後人一揆のとき以来、直茂はすっかり黒田孝高べったり路線を取る様になった。竜造寺政家は秀吉から隠居させられ、本家村中竜造寺家は幼君高房のものとなった。竜造寺家と鍋島家とは地位が逆転した。
鍋島藩が関ヶ原合戦に、西軍へ参加してしまったとき、〈如水〉は家康と相談して、免罪の話を付けてくれた。豊臣家に忠誠を尽くす立花宗茂が関ヶ原敗戦後も変節しないので、鍋島直茂は如水とともに柳河領に、大軍を催して侵入攻撃、家康から鍋島領の安堵を得たのであった。危機のときこそ力を発揮する〈かんぴょうゑ〉は、秀吉が恐れるだけのことはあった。直茂のその見通しが当たっていた。
方や、柳河城など筑後と肥後北に拠った水ヶ江竜造寺一門は、秀吉の九州遠征隊に対して協力したが、柳河城を立花宗茂、久留米城を小早川秀包に渡し、さらに浮羽、肥前東部を失った。竜造寺隆信が奪い取った筑後と肥後とを預かっていた水ヶ江竜造寺家晴は行き場がなかった。秀吉とともに関門へ引揚げていく小早川隆景を追いかけて、〈竜造寺家晴〉は所領の確定を願ったという。秀吉の返事は「九州遠征に協力的でなかった西郷党の諫早の地を攻め獲ったらよかろう」であった。もし、秀吉に攻め込まれたら、介添人を通して進んで秀吉に協力する姿勢を見せないと、諫早の西郷党や鎮西の波多江家のように、消滅の運命を辿ることになってしまう。
唐津海岸の領主波多三河守親(ちかし)の場合はこうだ。三河守は秀吉の命令にもかかわらず、島津遠征には兵を出さず、秀吉に忠誠心を疑われるようになっていた。波多江親は〈有馬義貞〉の次男藤堂丸である。未だ数え六、七歳のとき、〈波多盛〉の養子に入ったと伝えられる。勢いがあった竜造寺隆信の支配下にあった。実家有馬家の弟〈有馬晴信〉が島原で島津と組んで必死に隆信と戦ったときは、親(ちかし)は旗色を鮮明にできず出兵しなかった。そして、秀吉からの島津討伐命令があったときも、有馬の盟友島津を討つ事に躊躇したのか、出陣しなかった。竜造寺隆信に代わる鍋島直茂が秀吉に恭順の姿勢をとっていたから、三河守は進んで秀吉遠征軍に加わるべきであった。
三河守の系図について、資料がまとまっていないので、本説は吉永正春氏の解説に拠った。九州平定後の知行割りでは、波多江家は一応、岸岳城領七百五十町を安堵されていた。その後、三河守は上松浦の領主として、秀吉の名護屋城築城を喜ばず、渡海の船団形成に積極的には協力しなかった。下松浦の松浦鎮信のように、外交ができなかった。
文禄の役では鍋島直茂に従って七百五十の部下と渡海したが、大名同様の振る舞いで軍律を破ることがあった。文禄三年二月帰国したが、とうとう名護屋への上陸を許されず、船上で軍団長黒田長政から改易が伝えられた。三河守の身分は徳川家康が預かり、筑波国に流謫となった。三人の奉公人だけの随行であった。残された三河守の奉公人に多数の悲劇が見舞った。美貌の室〈秀の前〉にも、秀吉の野望が迫った話が当時流布されたが、老女に秀吉の触手が伸びたとも思えず、波多江親の追い落しと関連づけた噂であろう。
秀吉は旗本〈寺沢広高〉に水軍を預けることを決めており、文禄二年閏九月、すでに唐津城を広高に渡していた。上松浦の領主波多江親には帰るべき領地はなかったのである。対照的に、下松浦の支配者松浦鎮信は松浦・平戸や壱岐地方を拠点に海運と貿易に実績を有していたので、秀吉の朝鮮遠征の先棒を担いで活躍していた。
慶長の役に、寺沢広高は水軍として大活躍し、立花宗茂と島津義弘とは肝胆相照らす間柄となった。なお、広高入封時は松浦郡六万三千石とあり、元和の検地では、八万三千石余とされている。今日の唐津湾 虹ノ松原防風林を植林したのは、広高であった。
|