5.毛利と大友の対立 大内氏滅び騒乱頻発

時代を十六世紀中期にさかのぼる。天文二十年(1551)西の都と謳われた山口で、天下騒乱のきっかけとなった政変が起きた。足利幕府の支え柱であった守護大名大内義隆が武将陶晴賢(すえはるかた)に殺された。東は備前から、西は筑前・豊後までの広大な地域を支配する守護大内義隆の存在は、西国の政治安寧と経済的安定とをもたらしていた。たとえば、大内氏は筑前における武藤少弐氏の勢力追放に成功し、西国の通商と貿易が活性化していた。朝鮮半島との交易、明との貿易を継承することが出来た。そのおかげで富と文化がもたらされて、経済社会の成果を政治支配階層が享受していた。また、太宰大弐の官位を持つほどの世俗的権威と武力により、大内家支配力のおよぶ範囲は、この義隆の時代が最大であった。

義隆は文人であることが目立っているが、政治家としても、強力な指導力を持っていた。弱体な足利幕府を支え、経済的に基盤が弱い公家を支援していた。十年前に践祖した〈後奈良天皇〉の即位式を挙げるために献金した。

そして、筑前守護としても多面的に活躍している。肥前少弐資元を討ち、武藤少弐家を滅ぼして、新興の竜造寺胤栄を肥前代官にした。さらに、宗像地方に古代から続く領主家の宗像氏正(宗像社大宮司)へ周防黒川の荘園を与えて、宗像・鞍手を完全に支配下に置いた。また、大蔵系の一族原田氏(香春社大宮司)、宇佐神宮宮成氏などの祭祀を司る古家を守るなどした。大内義隆の公家社会に対する統制と政治指導は、足利幕府体制の安定化に役立っていた。

その後、大内体制が崩壊すると、箍(たが)がはずれて平衡を保てなくなった中国地方は、尼子氏と毛利氏との直接対立となり、尼子氏の没落が早まった。そして、九州探題を有する大内氏の実に一五三年に及ぶ太宰府の支配が終わりとなった。天文二十年から、それまでの残存勢力武藤少弐にかわり豊後の大友氏がすかさず筑前の拠点を強化する。その一つが大蔵系の高橋・秋月一族の勢力拡大であり、筑前支配の大友一族(立花氏)の筑前定着である。

大内氏を倒した武将〈陶晴賢すえはるかた〉の強引な布石は、長い目で見たら、破局に向かって突っ走るようなところがあった。大友晴英(宗麟弟)を迎えて、傀儡の大内政権を立てはしたが、長続きはしなかった。陶晴賢が大内義隆の持っていた権益を継承するために、九州で大友と対立、摩擦を生み出すのは当然起こりうる事態であった。ただ、大内晴英を自刃に追い込む強引な政治手法が、強腕武人の限界であった。政治家としては、陶晴賢は未熟である。

晴賢の為政者としての未熟例を、もうひとつあげる、宗像社大宮司〈宗像氏男〉が、大内家滅亡事件の巻き添えで、山口で死んだので、陶晴賢は身内の〈宗像氏貞〉を後継者として強引に、第八十代宗像社大宮司として送り込んだ。反対する一族を全て暗殺、謀殺しているので、氏貞まで暗黒の印象を持たれてしまった。氏貞は周囲の疑惑と警戒の目を終生解くことができなかった。氏貞の妹〈色姫〉を側室とした戸次鑑連(立花道雪)は、氏貞の取り扱いに頭を悩ませた。晩年の道雪は、宗像氏貞と対立を強めて、無用な戦いを仕掛けて、立花軍の戦力消耗をしてしまうなど、判断を誤る汚点をつけている。このとき、色姫が自殺するという悲劇までおきた。道雪の若き娘婿宗茂は、この事件で、老いた岳父立花道雪の老徹振りに多くのことを学んだのである。

武将としての力を頼みすぎた晴賢は、毛利元就の水軍戦略に乗り、安芸厳島で大軍を失い、あっけなく自刃することになった。弘治元年(1555)十月のことであった。陶晴賢の治世は四年一ケ月と短かった。これから、中国の毛利氏は尼子と大友との両面睨みの争いに突入することになる。陶晴賢の所業のせいで多くの悲劇がうまれたが、晴賢の手に乗った大友義鎮も大変な目にあった。ここでは、大友の被害については触れないでおく。話しを先に進めよう。

強奸陶晴賢を破った毛利元就の呼びかけに応じて、筑前の〈秋月文種〉は甘木古処山に拠り、弘治三年(1557)、大友義鎮(よししげ)に反旗を掲げた。大友の大軍に追い詰められた文種は、嫡子晴種とともに、古処山から逃亡中に殺された。そして、秋月文種の遺児(種実・種冬・長野種信)は難を逃れて、周防山口に逃げた。しばらくは、秋月勢の逼塞時代が続く。

永禄二年(1559)のこと、毛利は関門海峡の完全支配を狙って、門司城と松山城の大友義鎮軍を追い払った。同年九月、大友軍は門司城を攻めたが、奪回はならなかった。また、松山城も取り戻せなかった。水軍の力に差があったといわれる。対毛利戦略に大童の大友義鎮の隙をみて、秋月種実(たねざね)が、門司に上陸、毛利の援軍と力を合わせて、大友軍を打ち破りながら古処山に凱旋した。毛利勢の吉川元春・小早川隆景の助勢を受けて、秋月種実は弟種冬・長野種信をそれぞれ香春岳領・豊前馬ヶ岳領に独立させ、秋月の支配地を夜須郡・下座郡・嘉摩郡・穂波郡・豊前国に拡げていった。

このあと、大友義鎮は大軍を擁して、香春岳奪回にかかる。永禄四年(1561)のことであった。まず香春社大宮司原田義種が守る香春岳城を攻め滅ぼした。だが、数ヶ月後には、原田義種と同族の大蔵一族(高橋・秋月・田尻・砥上)が呼応して、香春岳の大友の守将志賀常陸介を豊前に追っ払ってしまった。それから大友対毛利の香春岳をめぐって四年の争いが続いた。そして、足利義輝将軍の仲介で、大友義鎮と毛利元就との和睦が出来たのだが、香春岳城の取り壊しについては、双方の武将の間で揉めにもめた。出来ない約束はするものではない。軍事上、筑豊田川郡に城は必要であり、破却は無理であった。守護大内氏が倒れたあとの北部九州の各地で、大内から毛利への権力移譲は、このように深刻な摩擦を引きおこしていた。

宗麟に敗れて、中国に引揚げた後、元亀二年(1571)毛利元就は尼子対策に追われるうちに七十五歳で死んだ。宗麟にとって、北部九州統合の好機である。戸次道雪に立花城を与え九州探題とした。おなじく、老将臼杵鑑速に糸島郡を与え、豊前岩石城の吉弘鎮種(高橋紹運)を宝満・岩屋城にまわして、筑前の守りを固めさせた。こうして、大友領を固めるのに腐心した。