6. 大蔵姓高橋家 筑前御笠郡と豊前小倉に分かれる
大蔵姓高橋家について少し説明をしたい。暫くお付き合いをねがいたい。平安時代の、承平元年(931)〜天慶九年(946)の頃、律令制度の破綻が来ていた。令(りょう)の判官(掾じょう・第三等官)が、都に還らずに、地方に土着するものが多く、国政を壟断する者が輩出するようになった。いわゆる制度疲労が顕在化しはじめていた。東国では平将門(まさかど)が関東諸国で反乱を起し、西国では、前の伊予掾(じょう)藤原純友(すみとも)が瀬戸内・豊後・玄海の海路を制覇して、太宰府政庁を破壊炎上させる天慶の乱を引き起こすなど、全国的に地方の治安が乱れていた。国難とも言うべき騒擾が続いていた。地方の判官(じょう)たちの多くは〈海賊〉と呼ばれ、いまや朝敵となっていた。
天慶三年(940)に大宰府都府楼が炎上したので、朝廷は翌天慶四年、藤原忠文を征西大将軍に任じた。追捕南海凶賊使の〈小野好古よしふる〉と大蔵卿朝臣春実が同年五月、筑前博多で純友軍を破った。そして、同六月、唐津の「浜崎玉島」で、伊予警護使〈橘遠保〉が純友の首を挙げた。純友の終焉の地は、唐津東の玉島川河口である。神功皇后の鮎つりの言い伝えのある「玉島神社」と川を挟んで、東側に純友終焉の碑が立っている。
〈大蔵春実〉の室は小野好古の娘である。宮廷武官大蔵氏が貴族小野氏の娘を娶るかたちであろうか。大蔵春実の祖は、朝鮮帯方郡から移動してきた秦国の王族である。その渡来王族のなかで、数代あとの〈阿智王〉はよく知られている。その子孫の中で、大蔵姓を名乗るものは、播磨国の大蔵谷に拠点を持つ一族である。小野家も帰化人の子孫であるから、だから、双方とも渡来系貴族と言うことになる。
派遣先太宰府で軍功あった〈大蔵春実〉は太宰少弐に任ぜられて、三千七百町の領地を与えられた。平清盛が太宰大弐であるから、春実は実質、大宰府長官である。大蔵少弐の館は東脊振村坂本峠の北側にあった。現在の那珂川町であり、都府楼とは、直線距離にして西方10qほどのところである。那珂川は水量豊かな流れで、川の傍に安徳(あんとく)という集落がある。都落ちした幼帝安徳天皇が、一時身を潜めたところであるが、大蔵春実が預かることが難しい事態になって、幼帝は屋島に還った。のち、大蔵少弐は源氏系の武藤資頼(すけより)に取って代わられるが、大蔵少弐の後裔は肥前と筑前各地に国衆として、すでに根を下ろしていた。二代目大蔵春種(はるたね)におおくの子女がいた。これらは江上・秋月・原田・三原・高橋・小金丸・波多江・筑紫を名乗り、九州北部に散らばっていた。
一方、武藤少弐の本拠地は、太宰府の東方の宝満山山麓にある有智(うち)城であった。南北朝時代・室町幕府時代を通して、太宰府長官は筑前・肥前・松浦・壱岐の玄海を支配し、太宰府は朝鮮、中国との交易の権益の中心地であった。足利幕府末期には、中国地方大内氏の興隆で、次第に武藤少弐の権益が侵食されていた。大内義隆の時代には、豊後の大友氏の筑前進出もあり、武藤少弐氏は消滅寸前であった。この時代背景を考えておくと、筑前の戦国時代の模様が判り易い。
大蔵少弐の時代から五百年以上を経るなかで、大蔵家はいろいろ消長があった。例えば、弘治二年(1557)、一族の甘木の〈秋月文種〉は、三万七千五百石、古処山城と十三の支城の領地を持つ勢力盛大な国人であった。守護大名大友氏の領土のなかで、秋月氏は筑前・企救地方に一大勢力を持つ有力な国衆となっていた。この秋月氏に接近してきたのが、山口の陶氏を破った毛利元就であった。弘治元年(1555)、毛利元就が陶晴賢(すえはるかた)を厳島に破った。新しい山口の支配者元就の呼びかけに呼応して、秋月文種が、古処山城で反大友の旗揚げをした。ここから、大友と毛利との弘治・永禄の歴史的抗争が始まった。
このころ、筑前御原郡辺りの領民は、大蔵姓高橋家の小領国を形成していた。足利尊氏から検断職に任ぜられた大蔵光種がこの太宰府に近い高橋に館を置き、住まっていたといわれる。現在でも、甘木に高橋屋敷があった集落がある。光種から七代後の高橋長種には子がなかった。秋月文種を攻め滅ぼした大友軍指令官の一萬田鑑種(左馬之助)が戦功により、集落高橋を含む二千町を領治することになった。そして、鑑種(あきたね)は筑前城督として太宰府に居を移し、宝満城の築城に取り掛かった。大友義鎮は高橋家が絶えるのを惜しんで、鑑種に高橋家を継がせた。だが、この高橋鑑種が永禄の筑前騒乱を起すとは、誰も予見することができなかった。
その鑑種が毛利元就の呼びかけに応じて、秋月文種の決起に似たような、大友義鎮に反抗する事件を引き起こした。これが「永禄の筑前騒擾」のきっかけであった。だが、その騒乱の元凶高橋鑑種は、毛利の一時的撤退で、豊前大友軍に屈服して、宝満城から小倉城に移住させられた。このとき、小倉に移住しない高橋領の家臣が多くいた。永禄十三年のことだが、頭領がいなくなった高橋集落には、高橋を采配する武将を求める動きがあった。
高橋家の老臣北原鎮休(しげよし)らは、豊前岩石(がんじゃく)城にいた吉弘鑑理(あきただ)の次子吉弘鎮理(しげただ)を招いて、高橋家を継がせた。このとき、高橋家に必ずつける「種」の字を入れた鎮種(しげたね)を名乗らせた。こうして高橋鎮種は新しく宝満城と岩屋城の城主となり、立花道雪と手を携えて、傾運の筑前大友領守備を固めていった。
少し付け加える。一萬田鑑種と吉弘鎮理とは、ともに大友義鎮の近習で、左馬之助、右馬之助と呼ばれていたときがあった。大友家に対して、ふたりの生き様は全くちがうものであった。小倉城に移住した左馬之助(高橋鑑種)には、二人の継子がいたが、質子を大友と毛利にそれぞれ預けていたので、天正六年(1578)養子として、秋月種実の次男八歳の元種をもらった。一方、右馬之助(吉弘鎮理)は宝満城に入り、名家大蔵姓高橋家を継いで嫡子高橋統虎(宗茂)を育てていた。ここに、筑前と豊前に二つの高橋家が存立することになった。
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