7.大友王国の内憂外患
    壊れるべくして壊れた専制領主国

天正六年(1578)は大友王国が崩壊を始めた年である。たしかに、日向の守護大名伊東義祐が前年、豊後に逃れ来て、庇護を求めるような差し迫った事態が起きていた。日向中央部に敵対してきた伊東氏がいなくなったので、日向北部地方の縣(あがた)の松尾城主〈土持親成〉(つちもちちかしげ)島津氏との以前の友好関係に復そうと動いた。親成は隣国の佐伯惟教(これのり)の妹を正室とし、これまで大友方の国衆として、大友王国を支えてきた人物であるが、土持家日向の復権を望んだ。これまで土持氏を支配してきた大友家としては面白くない話しである。土持氏討伐すべしという宗麟の縣地方出動指示は、大友加判衆の支持を得て、天正六年四月遠征となった。

縣地方の神社・仏閣は大友軍に焼き払われ、松尾城は落城、土持親成は降伏したが、豊後浦辺で自害させられた。これで、日向に歴史を誇る土持家は解体した。宇佐神宮の神官を出してきた平安からの大神家系旧家は消滅した。そこに、キリスト王国を建設するという宗麟の夢が膨らんだのであった。

縣地方の完全支配に成功し、土持領から帰国した宗麟は、正室〈奈多紋〉を離縁、神父カブラルから洗礼を受けて、後妻〈ジュリアンお孝〉とともに生きることを宣言したのであった。加判衆や家臣は悩んだ。神道の伝統が強く残る歴史の府に、キリスト教国を創ろうとするのは、例を見ない専制暴挙である。他宗教を排除するキリスト教義の排他性は、宗麟の立場を極めて難しいものにした。宗麟は大友家の菩提寺〈大友寺〉を焼失させてしまう愚行をして、一族の憤激をかった。また、宇佐神宮の宮司家奈多氏の抵抗は一段と激しくなっていった。神道や仏教の神社・寺院を地域や集落の拠り所としてきた大友家人の当惑は如何ばかりであったろうか。家臣が心を合わせる目標を失った大友王国は、転落の運命が待ち受けていた。

天正六年(1578)九月、宗麟は多くの加判衆や老臣の反対を押し切って、大軍三〜四万余を擁して、府内から200`離れた日向児島郡に侵入した。伊東義祐領の失地回復を考えた島津領侵入であったが、とんでもない戦争計画であった。

縣地方をさらに30`南下した大友軍は高城(たかじょう)に籠る島津の将山田有信を攻め立てた。高城は日向平野北側への関門を扼する要地であり、かつて伊東領であった都於郡(とのごうり)城が30`南にある。島津にとってこれを失うことは、旧伊東領の復活の危機につながるものであった。佐土原城の島津家久は、高城に駆けつけて籠城した。

宗麟は侵略戦争と並行して縣の無鹿(むしか)に、キリスト教理想郷「務志賀」の建設に取り掛かっている。宗麟は侵入戦争の指揮を〈田原紹忍〉に任せっきりであった。宗麟はキリスト教団カブラル神父たちと教国建設を推し進めていた。だが、紹忍は高城攻略に失敗し、縣に向かって退却してきたので、宗麟教団は無鹿(むしか)から、雪崩を打って退却せざるをえなかった。

大友軍はその帰路、日向美々津の〈耳川〉で歴史的大敗を喫して、多くの大友武将たちを失った。討ち死した将兵は三千〜四千といわれる。多くの老臣と国衆たちが戦死や自害をした。重臣吉弘鑑理(あきただ)、斉藤鎮実(しげざね)、佐伯惟教(これのり)、角隅石宗、田北鎮周、臼杵統景、吉岡統増、小佐井市兵衛が死んだ。臼杵統景の叔父で後見役、進士兵衛(宗珊)も死んだので、宗麟の身辺を守る臼杵城の勇士が少なくなってしまった。この美々津の敗戦が大友凋落のきっかけとなった。

宗麟は神父たちと三日三晩かけて、臼杵に逃げた。それから、専制君主は隠居を宣言して、臼杵城の東南5`の津久見に隠棲して、キリシト者非難の嵐が吹き荒れる現実の世界に身を潜めていた。

日向の島津攻略を指示した宗麟が、戦場で指揮を取らず、後陣の責任者義統(よしむね)は、府内から南へ五里(20キロ)離れた野津で、輜重と輸送を受け持ちながら、宗教活動に入り浸るなど、戦時の大友親子は心得違いをしていた。キリスト教王国建設を夢見て、強敵島津の戦力を甘くみていた。武臣としては無能な田原紹忍(宗麟正室奈多紋兄)を総指揮者として日向に侵入したのは宗麟の間違いであった。

多くの老臣は宗麟の戦争突入指示に反対であった。戦場での士気は上がらず、田原紹忍は戦争反対の田北鎮周(しげかね)を高城攻略の先陣にすえるなどして、武将たちを絶望の状態に追い込んでいた。大友軍は戦闘指揮がない猪突猛進の捨て鉢な攻撃に終始したという。こうして、坂道を転がり落ちるように、宗麟と田原紹忍は大友の領国を失った。「高城攻撃」「耳川の戦い」のあと、宗麟は引退、守護大名の地位と版図を一挙に喪失した。義統は軍役再編、軍評定と戦功考課、後継者手当などの戦後処理をすることができなかった。縣を失った後、大友は国力が疲弊して、島津、毛利、鍋島勢の大友領国への侵攻に抗することができなかった。

省みれば、宗麟の日向遠征は暴挙に等しいものであった。大友加判衆の反対を押し切り、国衆を酷使するのでは、領国統治は早晩くずれる。案の定、天正七年から領国崩壊が始まった。例えば、蒲池鑑盛(あきもり)は筑後柳河城から、はるばる八百の兵を引き連れて、日向侵略戦に加わったが、耳川の合戦で、自刃してしまった。天正八年、柳河城はやがて龍造寺隆信に乗っ取られ、さらに筑後と肥後北部が龍造寺の勢力下に入った。筑前も無事には済まなかった。隆信は同七年、佐賀から三瀬(みつぜ)越しで筑前にも出兵、博多の街に侵入。安楽平(あらひら)城、柑子(こうし)岳城を陥落させた。また同九年、坂本峠から侵入して、那珂川上流の鷲ヶ岳城を押しつぶした。筑前の半分はあっという間に竜造寺領になった。隆信と秋月種実、筑紫広門は連携して、大友方を圧迫していった。

天正七年(1579)になって、弱り目の大友の様子を覗って、毛利の勢力も筑前、豊前に手をのばしてきた。永禄年間の「筑前騒乱」の再來のような状態になった。十年前の永禄十二年(1569)当時、騒乱の巨魁とみられていた高橋鑑種(あきたね)は、宗麟に一命を助けられ、小倉城主としてここ十年逼塞していた。だが、この危険人物がふたたび毛利の動きに合わせて蠢動した。天正七年正月、鑑種は小倉城から豊前松山城の〈杉重良〉を突然に襲って討ち滅ぼし、香春岳城の〈千種鑑元〉を追い出して養子高橋元種を入れ、馬ヶ岳城の〈長野重勝〉を攻め、秋月種実の弟種信を入れて長野家を継がせた。

こうして大友の領地をかすめ取った高橋鑑種は、いまや、秋月種実とともに、大友の身中の虫のような存在になっていた。天正七年の筑前・筑後は秋月、筑紫、原田、宗像、草野、星野など各氏が次々に大友家から離反し、龍造寺と毛利との連携画策で騒乱前夜の状態となってしまった。筑後十五家のうち大友に残るは問註所氏など少数であった。永禄の筑前騒乱を思わせる大友の危機がひたひたと押し寄せていた。

宗麟の嫡子義統(よしむね)は家臣からみて、信頼の置けない頭領であった。宗麟から地位を引き継いでから、内政に誤りを繰り返し、重役の離反が相次いだ。例を挙げる。田原宗家から宇佐妙見岳城や竜王城を取り上げて、田原紹忍に分け与えるなど理不尽なことをして、天正八年、田原親貫から内乱を仕掛けられた。大友家臣の多くは田原宗家の田原親宏・田原親貫に同情的であった。田原親宏が大友の豊前領統治の功労者であることを、大友家中は認めていた。親宏の豊前領有にあたって、長野親貫が豊前(馬ヶ岳城)から田原家の養子に入り、親宏の娘を室としていた。親貫は大友と秋月の融和のための貴重な人物であった。

親貫は天正六年の「耳川の戦い」に参戦、義統に忠節を尽くしている。なのに、義統は親貫の領地を再び紹忍に与えようとした。宗麟の支援で、何とか田原内乱を収めることができたが、義統は家臣の信望を失ってしまった。無策で間違った判断と行動を繰り返す大友の若い頭領は経国のための人事にも失敗して、重臣の離反を招き、守護大名の権益をあっというまに失ってしまった。

天正十四年(1586)に話を飛ばそう。秀吉の九州遠征先遣軍が到着した年である。秀吉が『たとえ、かの悪党、合戦を挑み申し候とも、かまいなく、堅固の覚悟これ有るべく候、四国・中国の勢、おっつけ着岸あるべく条、その間、聊爾(かるはずみ)の働き、無用に候』と義統に作戦の指導をしているのに、これを理解できないでいる。また、仙石秀久も島津軍を抑えるために派遣されたのに、義統に引きずられて、宇佐に出動した。秀久もまるで自分の立場が判っていない。秀吉は仙石秀久を罰した。義統は許されたが、宗麟の立場を考えての秀吉の処置であったと思われる。

天正十四年、豊後肥後口に、島津義弘の三万五千の兵が現れ、竹田地方は、恐慌状態が続いていた。そして日向から島津家久一万五千余の大軍が日向国境梓峠から豊後大野郡に雪崩れ込んできた。まず、家久隊二千が宗麟が住む臼杵の丹生島城を襲った。義統は四国遠征軍と府内にいたが、大野郡鶴賀城(利光宗魚)救援のために戸次(べっき)川に島津軍を迎撃した。ここでも島津軍に大敗した。四国遠征軍の仙石秀久は小倉まで逃げ帰り、長宗我部元親は四国伊予の日振島にもどった。義統は本拠地豊後府内を見捨て、一旦は大友の拠点とするといっていた別府の鶴崎に逃れたものの、すぐさま豊前宇佐の竜王城に逃げていった。そこは田原紹忍の居城妙見岳城の近くである。この後、秀吉本軍の豊前救援となるが、ここで、豊後崩壊について一旦筆を置くことにする。